Theme Settings

Color Scheme

Dark Mode
Timeline Characters Contents
Back to Timeline

Chapter 200

講義室へ行く前にトイレに寄って鏡の前に立つ。

仙台さんからもらったリップを鞄の中から取り出す。

キャップを取ると甘い香りがして、今日見た夢を思い出す。


葉月と呼ぶ私。

仙台さんを引き寄せる私。


彼女の柔らかさも滑らかさも蘇って、酷くいやらしいことを考えているような気がして頭をぶんっと振る。


短期間に二度も似たような夢を見たから、頭に残っているだけだ。


自分に言い聞かせて鏡を見ると、なにも塗っていない唇が映っている。指先で撫でると、引っかかることなく唇の上を滑った。

荒れてはいない。

リップを塗るか迷う。

はあ、と息を吐いて唇を噛む。


キャップを閉めてリップを鞄にしまう。


家で使うと仙台さんがなにか言ってきそうで面倒くさいから、リップは大学に来てから塗っている。でも、今日はやめておく。変な夢を見たから気分が乗らない。甘い匂いは仙台さんとのキスを思い出させ、それ以上のことも考えさせる。ちょっとした夢が大きくなって、そのことばかりに囚われてしまいそうで嫌だ。


全部、全部、仙台さんが悪い。


私は、鏡の中の私に背を向けて講義室へ向かう。

夏休みが長かったせいか、十月になっても夏が続いているような気がする。エアコンが必要なほどではないけれど、まだ暑いと感じる日があるし、アイスを食べたくなる日もあるから余計にそんな風に感じるのかもしれない。大学にいても夏が頭から離れず、家でゴロゴロしたり、水族館でペンギンを見たりしたくなる。


ぼんやりした頭のまま廊下を歩き、ドアを開けて講義室へ入る。三分の二ほどが埋まり、ざわついている室内をぐるりと見回して舞香の姿を探すと、見慣れた顔がすぐに見つかった。


「おはよ」


舞香に声をかけると「おはよ」と返ってきて、隣に座る。


「あれ? 今日はリップ塗ってないんだ」


私の顔を見た舞香が軽い声で言い、同じように軽く「うん」と返す。


仙台さんから誕生日プレゼントとしてもらったから、使っている。


仙台さんからもらったリップを初めて塗った私を見て「帰りにどこか寄るの?」と聞いてきた舞香にそう答えてから、私がリップを塗っていることは当たり前のことになっている。リップをしていても不自然に思われないのはありがたいけれど、していないと不自然に思われるのは少し面倒だ。


仙台さんはいてもいなくても、私の生活に干渉してくる。


「あのリップいいよね。さすが仙台さんって感じ」

「そう?」

「そうだよ。志緒理に似合ってるもん。私も選んでもらおうかなあ」


綺麗な色のリップを塗った舞香が明るい声で言う。

こういうとき本当なら、みんなで買いに行こうとか、うちにくればとか、そんなことを言うべきなんだとわかっている。でも、そんなありきたりな言葉を口にしたくないと思う私がいる。


舞香を仙台さんに会わせたくない。


強くそう思う。

仙台さんは、とてつもなく私の心を狭くさせる。だから、友だちとして当たり前にできることができなくなる。


糊で封をしたように口が開かない。

かといって、このまま黙っていると舞香が仙台さんに連絡して、二人でリップを見に行ってしまいそうで胃の辺りが痛くなる。


机の下、手をぎゅっと握りしめる。

爪が手のひらに食い込んで、それでも手を握りしめていると、舞香が思い出したように言った。


「そう言えば、仙台さんの誕生日って八月だよね?」

「そう、八月」


短く答えて、ゆっくりと手を開く。


「仙台さんの好きなものってなに? ものじゃなくて人とか場所でもいいけど」

「猫とか?」

「ああ、猫! 休みの日にわざわざ探しに行くほど好きなんだっけ」

「好きみたいだよ」


仙台さんの来年の誕生日に猫グッズをプレゼントしようかな。


話の流れを考えると舞香がそんなことを言いだしそうで、私は彼女に問いかけた。


「舞香。今日、ご飯食べて帰らない?」


舞香は仙台さんと連絡を取り合うくらいの仲になっているのだから、プレゼントを渡したっておかしくないし、黙って仙台さんにプレゼントを贈ることもできる。だから今、舞香がなにを言うかは重要なことではないとわかっているけれど、プレゼントの話だったら聞きたくないと思う。


「仙台さんは?」

「バイト」

「新しくはじめたっていうカフェのバイト?」

「そう。今日、帰ってくるの遅くなるって言ってたから」


今日は一人で家にいると余計なことばかり考えてしまいそうで、できることなら誰かと一緒にいたい。


「仙台さんすごいよね。バイト掛け持ちしてさ。大学生って暇そうなイメージあったけど、実際は結構忙しいのに」

「そんなにバイトしなくてもいいと思うけど、冬休みもバイトしたいみたい」

「仙台さんって、高校の頃のイメージと違うよね。家庭教師したり、バイトしまくったりするイメージなかったもん。昔のイメージだと、サークル入って遊んでそうな感じなのに」

「確かに。茨木さんたち派手だったしね」


私の言葉に舞香が頷く。

クラスで目立っていた茨木さんといつも一緒にいた仙台さんは、私の中でも茨木さんのイメージに近い時期があった。今はもうそんなイメージはどこにもない。仙台さんは私の中で再構築され、私だけが知っている仙台さんになった。


「あ、そうだ。今日、仙台さんがバイトしてるカフェでご飯食べない?」

「え、なんで?」


舞香が唐突に予想もしていなかったことを言いだして、思わず聞き返す。


「なんでって、仙台さんが働いてるところ見たいから。志緒理は見たくない?」


バイトをしている彼女を知りたいと思う。

でも、どうしても見たいわけではない。

彼女を取り巻く新しい環境を知ってしまったらバイトを辞めてほしいと今以上に強く思ってしまいそうで、素直に見たいとは言えない。


「バイト先、場所まで詳しく聞いてないからわかんない」

「じゃあ、聞こうよ。帰るまでには返事くるでしょ」


そう言うと、舞香が鞄の中からスマホを出したから、私は慌てて言った。


「今日、行きたいお店あるんだけど」

「どこ?」

「この前、朝倉さんが言ってたところ」


大学に入って知り合った友だちの名前を挙げる。


「ああ、可愛いクリームソーダがあるカフェ?」

「そうそう」

「そこ、私も行ってみたいと思ってた。仙台さんのところは今度にしようか」


舞香の言葉に曖昧に頷くと、ドアが開いて先生が入って来る。

すぐに授業が始まるが、内容が頭に入らない。


直前まで仙台さんの話をしていたせいで、私の大半を彼女が占めていて、聞こえてきた声を留めておく場所がないし、ノートを取る手も動かない。


家庭教師のバイトと違って、カフェのバイトなら見に行ける。


何度か考えたことだけれど、舞香に言われて改めてそのことを意識する。仙台さんもバイト先にご飯を食べにくればと言っていた。


私のものにならない時間。


それを見ているだけの自分を想像すると、気が滅入る。

あまり考えたくなくてバイトのことを頭から追い出すと、今度は今朝見た夢が顔を出す。


仙台さんも同じような夢を見たことがあるのかもしれない。

見ているのだとしたら、夢の中の私はどんな私なんだろう。


今まで考えたことがなかったようなことを何度も考える。

結局、授業に集中できないまま一日を終えて、舞香と一緒に仙台さんのバイト先ではないカフェへ行く。


仙台さんがバイトをしている間、私たちはくだらないお喋りをする。仙台さんのバイト先のメニューは知らないけれど、このカフェのクリームソーダは朝倉さんが言っていた通り可愛いし、ご飯も美味しい。舞香と一緒にいるのだって楽しい。それは仙台さんがバイトをしていたって変わらない。


時間はあっという間に過ぎて、舞香と別れる。

家へ帰ってきて、共用スペースの電気をつけて椅子に座る。


仙台さんはまだ帰ってきていない。

遅くなると聞いていても、帰ってきていない彼女に苛立つ。


今日は一日中、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

仙台さんのせいで、私がめちゃくちゃになる。


一人に慣れていたはずなのに、仙台さんがいないことに慣れない。帰ってくると言って帰ってこない人がいることに慣れていたはずなのに、帰ってくるとわかっている仙台さんの帰りが遅いだけで不安になる。さっきまで楽しかったはずなのに、仙台さんがバイトをしているせいで楽しくない。


テーブルの上、鞄からリップを出して立てる。


「……葉月」


誰もいないとわかっているけれど、小さな声で呼ぶ。


早く、早く、早く。

一刻も早く。

仙台さんが帰ってくればいいと思う。


Translation Sources

Original