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Chapter 260

宮城には、気持ちを切り替えて、なんて言葉は存在しないし、存在したとしても今は活用してくれそうにない。


だから、機嫌は急には変わらない。


「コートと鞄置いてくるから、ノックしたら絶対に開けて」


私は、放っておけば明日の朝まで機嫌が悪そうな宮城に声をかける。


「なんでわざわざそんなこと言うの?」

「言っておかないと開けてくれそうにない顔してるから」


宮城は私のリクエスト通り、家へ帰り着くまでゆっくり歩いてくれた。


でも、ずっと不機嫌そうな顔をしたままだったし、玄関で青いマフラーを外したときも、共用スペースへ入ってきたときも、私を見ようとしなかった。その上、逃げるように自分の部屋へ入ろうとするから、ノックをしたらドアを開けてと念を押すようなことになっている。


「それ、私の部屋に仙台さんが来るってこと?」

「そういうこと。少し話がしたいし」

「私はしたくない」


ドアの前、部屋を侵入者から守る門番と化した宮城が冷たい声で言う。


「じゃあ、話をしたくない理由は? 理由によっては今日ノックするのは諦めてもいい」


宮城が私と話をしたくない理由なんて、あってないようなものに違いない。だから、私を拒むことはできないはずだ。


「仙台さんにわざわざ理由を言う理由がないじゃん」

「話がしたいっていう申し出を断るなら、それなりの理由を用意するのが礼儀だと思うけど」

「……五分以内に来たら開ける」


渋々、嫌々、どちらでもいいが、低い声が聞こえてくる。


「わかった。すぐに行く」


部屋へ入れてくれるなら、五分という制限がついていてもかまわない。紅茶を入れようと思っていたけれど、それを諦めれば余裕で間に合う。


私は自分の部屋へ行き、コートと鞄を置く。無粋な着信音に邪魔をされるようなことがないように、スマホも置いていく。鏡を見て髪を軽く整えてから、共用スペースへ行き、ドアを二回ノックする。


「入って」


機嫌が良いとは言えない声に迎えられ、ドアを開ける。私は本棚に飾られている黒猫のろろちゃんの頭を撫でてから、ベッドを背もたれにしている宮城の隣に座った。


「話ってなに?」


声が冷たい。でも、彼女のなるべく近く、すぐに手を握れる位置に座ったのに、私から離れたりはしない。出かけたときと変わらない姿の宮城に手を伸ばし、スカートを軽く引っ張ると、ぺしんと手を叩かれた。


「宮城、私に言いたいことない?」


隣にいることは許してくれるが、触れることは許してくれない宮城に問いかける。


「ない。少し話がしたいって言ったの仙台さんなんだから、仙台さんが話すんでしょ」

「それは宮城の話が聞きたいって意味。宮城、今日ずっと機嫌が悪かったでしょ。理由言いなよ」

「機嫌悪くなかった。あれが普通だから」

「普通だったら、一緒にいる人の名前くらい呼ぶんじゃない? 宇都宮といる間、一回も仙台さんって呼ばなかったじゃん」

「気のせいだと思う」


宮城が私を見ずに言う。


「気のせいじゃない。呼ばなかった」


記憶ははっきりしている。

どれだけ思い返しても「仙台さん」と私を呼んでいたのは宇都宮だけで、宮城から呼ばれた記憶はない。彼女が私を「仙台さん」と呼んだのは、宇都宮と別れてからの話だ。名前を呼ばないという意志を持って、呼ばずにいたとしか思えない。


「名前呼ばなかったことが気に入らないなら、今呼ぶ。……葉月。これで今日呼ばなかった分になるでしょ」


ぞんざいに私の名前が扱われ、「もう部屋に戻って」と付け加えられる。


違う。


ずっと葉月と呼んでほしかったし、葉月と呼ばれるのは嬉しいが、こういうことではない。宇都宮といた間に呼ばれなかった“仙台さん”をおざなりとしか言いようのないたった一回の“葉月”にまとめてしまうなんて横暴だ。


「宮城。葉月って呼ぶなら、もう少し心を込めなよ」

「込めた」

「込めたって言うのは、こういう感じのことを言うの」


私は宮城のスカートを引っ張り、彼女の視線をこちらに向ける。

むすっとした宮城と目が合う。


「志緒理」


過去に何度も呼ぶなと言われた名前を小さく、優しく、普段呼べない分の気持ちを込めて呼ぶと、宮城の眉間に皺が寄った。

予想はしていたが、面白い反応ではない。


「呼んでいいって言ってない」

「志緒理って呼ばれたくないなら、言いたいこと言いなよ。私が悪かったんだったら、言ってくれれば直せるし」


宮城をじっと見ると、交わっていた視線が外される。そして、私が耳の辺りに作った三つ編みを引っ張り、ぼそりと言った。


「……ペンケース、買うって聞いてなかった」

「言ってなかったけど、時間があったし、買い物が一つくらい増えたってかまわなかったでしょ」


私の行動は予定外のものだったかもしれないが、前もって言っておかなければならないほどのものではなかったと思う。


「良くない。……仙台さんって、家庭教師のバイト大好きだよね」


宮城の手が、離れろと言わんばかりに私の肩を押す。


「大好きってことはないけど」

「高校に合格したからって、お祝いにペンケース買うくらい好きじゃん。そんなに好きなら、ずっとその子に勉強教えれば」

「そういうことじゃないでしょ」

「じゃあ、教えるのって誰でもいいんだ?」

「誰でもいいわけじゃないよ」

「誰でもいいわけじゃないから、その子にペンケース買って、その子に勉強教えるんだ?」


なんなんだ。

この会話は。

支離滅裂だ。

なんなんだ。

この反応は。

非論理的だ。


これじゃあまるで――。


ありえない言葉が頭に浮かぶ。

でも、それは口にすべきではない言葉で、私は別の言葉を口にする。


「もしかして合格のお祝い買うのって、バイトのことだから怒ったの?」

「怒ってない。気に入らなかっただけ。……あと、好きなもの、見つかったのに教えてくれなかった」


浮かんだ言葉を頭から押し出すような言葉が宮城の口から飛び出てきて、思わず「え?」と聞き返す。


「仙台さん、勉強教えるの好きなんでしょ」


忘れものがないか確認するような口調で宮城が言う。


「そうだけど」

「それと洋服選ぶのも好きなんでしょ」

「そうだけど」


確かにそう言った。

勉強を教えるのも、洋服を選ぶのも好きだ。

その言葉に間違いはない。

でも、宮城が知りたがっていた好きなこととは違うと思う。


「嘘だったの?」

「嘘ではないけど」


好きという言葉に嘘はないけれど、正しくはないから歯切れが悪くなる。

本人には言えないが、宮城が口にした“私の好きなこと”はどちらも彼女に紐付いているものだ。


勉強は宮城がいなければ教えようとは思わなかったし、家庭教師のバイトをするようなこともなかった。洋服もそうだ。宮城とルームシェアをすることがなければ、誰かのために洋服を選ぶことを好きだと思うことはなかった。


だから、きっと、どちらも宮城への答えになるようなものではない。


「嘘じゃないなら、なんで教えてくれなかったの?」


こういうとき。

本当のことを言いたいと思う。


宮城が好きだから、誰かに勉強を教えることが好きになった。

宮城が好きだから、誰かに服を選ぶことが好きになった。


そう伝えたい。本当のことを言ってもいいなら、何回でも言いたい。

でも、それは、好きなことの根源にある宮城への気持ちを口にすることにもなることで、それを口にしてしまえばすべてがなくなってしまうかもしれない。


「わざわざ言うほど好きって感じがしてなかったから」


宮城が誤魔化されてくれるかわからないが、他に言い様がない。


好きという言葉は、ルームメイトという関係にヒビを入れる言葉だ。宮城が隣にいてくれる生活を続けたいなら、彼女の方からルームメイトという言葉を捨ててくれるまで封印しておかなければならない。


「宮城の言いたいことってそれで全部? 他にもあるよね? ペンケース買う前から機嫌悪かったし」


これ以上、好きなことの話をされないように、逸れていった話の軌道を修正する。


「……言いたくない」


宮城がぼそりと言って、口をつぐむ。

言いたいことがあるくせに言うつもりはないらしい。


「教えてよ」

「出てって。もう話したくない」


そう言うと、宮城が私の肩を押して距離を取り、間にワニのティッシュカバーを置いた。そして、ティッシュを丸めて私に投げつけてくる。


一つ、二つ。


コロコロと床にティッシュの塊が転がり、それが増えていく。私は白い塊が五つになってから、宮城の腕を掴んだ。


「教えてくれたら出ていく」


宮城が酷く嫌そうな顔をして私の手を振り払い、五つのティッシュの塊を集めると、まとめて投げつけてくる。痛くもかゆくもない塊はすぐにまた床に落ち、宮城が硬い声で私を呼んだ。


「仙台さん」


声とともに、腕を引っ張られる。宮城が私に近づいたのか、私が宮城に近づいたのかわからないまま、唇がくっつく。


ようするに、突然、そういうタイミングではないのに、キスをされた。――唇に。


宮城と数え切れないくらいキスをしたいと思っていたけれど、嬉しいという気持ちよりも驚きの方が先に立つ。


閉じ忘れた目に、宮城が映る。

近すぎてよく見えなくても可愛いと思う。

唇から伝わってくる柔らかな感触と熱は気持ちが良い。


宮城の舌が唇を割って入ってきて、キスが深くなる。

舌先が私のそれに触れ、軽くくっつく。

私と宮城の体温がはっきりと交わり、流れ込んでくる。 


嬉しいけれど、どうしていいかわからない。

彼女に応えて舌を絡め取ってしまいたいけれど、そんなことをすれば逃げていってしまいそうだ。


できるだけ長く宮城の体温を私の中に留めておきたいと思う。

同時に、もっと強く宮城を感じたいとも思う。


目を閉じて、焦れったいくらいゆっくりと動く舌に自分のそれを押しつける。湿った体温が流れ込んできて、体の奥で熱に変わる。柔らかくて弾力のあるそれを軽く噛むと、宮城が驚いたように離れた。


消えてしまった体温がほしくて距離を縮めようとすると、肩を強く押される。


「……嫉妬した」


キスをするには遠い距離、宮城の小さな声が聞こえる。

でも、その声は形にならない。


ただ聞こえてきただけで、意味のある言葉にならず、頭の中に滲むように浮かんでいる。


私は視線を床へ落とす。

ワニの背中をじっと見て、聞こえてきた言葉を一文字ずつ変換し直す。


「――え?」


嫉妬。

確かにそう言った。


頭の中にも間違いなく“嫉妬”と言う言葉が見えるけれど、おかしい。宮城がそんなことを言うわけがない。


嫉妬なんて。

宮城が、私に向かって、そんなこと。


気のせいかもしれない。

いや、そもそも私には関係のないものへの嫉妬かもしれない。さっき頭に浮かんだ口にすべきではない言葉を、私が思うような意味で宮城が言ったりするわけがない。


「ごめん。もう一回言って」

「……仙台さんって、私のものだよね?」


宮城が聞きたかった言葉とはまったく違う言葉を口にする。


「そうだよ」

「じゃあ、なんで私じゃない人のものを選ぶの? 洋服選ぶの好きだから?」

「え?」

「私のもののくせに、私以外の人になにか選んだりしないでよ。むかつく」

「え?」

「もう言いたいこと言ったから出てって」

「え?」

「え、しか言わないなら、ここにいる必要ないでしょ。早く出てってよ」


え、しか言わないわけではなく、え、しか言えないだけだ。

わけがわからないのだから、仕方がない。


宮城の言葉を総合すると、私が宇都宮に嫉妬するように、宮城も宇都宮に嫉妬していた。私が澪に嫉妬するように、宮城も桔梗ちゃんに嫉妬していた。信じられないけれど、そんなことがあるとは思わなかったけれど、そうとしか思えない。そういうことを言う宮城を想定していなかったから、コードが絡まるように思考の糸が絡まってしまっている。


おかげで、導き出した答えが正しいのか判断できない。


宇都宮の洋服を私が選んでいたから、機嫌が悪かった。


私には、そんなことを本当だと思える頭はついていない。すべてが悪い冗談としか思えなくて、頭の中が「え?」で埋め尽くされていく。


「仙台さん、いつまでここにいるつもり?」


宮城がこれ以上ないくらい不機嫌な声を出す。

私は頭の中にぎゅうぎゅうに詰まっている「え?」を追い出して、彼女の耳たぶを撫で、ピアスを軽く押す。


「宮城。私、これから宮城以外の人の服――」

「選ばないって約束しなくていいから」


私の言葉を奪った宮城が冷たく言って、ピアスに触れている手を叩いた。


「無理じゃん。そんなの。絶対に破るような約束はしなくていいから、早く自分の部屋に行ってよ」


催促するように肩が押される。でも、まだこの部屋から出て行くわけにはいかない。


「待って。私も言いたいことあるから」

「なに?」

「私もだよ。私も宇都宮に嫉妬してた」


好きだとは言えないけれど、これくらいなら言える。


「嘘ばっかり」

「本当だって。だから、宮城のもの、これからずっと私に選ばせてよ」


宮城以外の人の洋服を選ばないという約束をさせてくれないなら、宮城のものをずっと私が選ぶという約束をさせてほしい。そして、ずっと私を宮城のものにしておいてほしいと思う。


こんなものは些細な願いだ。

難しいことではない。


でも、宮城は「やだ」と短く答えた。


「絶対に可愛くしてあげる」

「そういうの、言わなくていい」

「じゃあ、宮城が言ってほしいことってなに?」

「言ってほしいことないから、黙ってて」


そう言うと、私の首筋、――誰からも見える場所に宮城が印をつけた。


Translation Sources

Original