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Chapter 268

ペンちゃんが返ってこない。

あれから何日も経っているのに返ってこない。


代わりに、抜け殻のようなワニのティッシュカバーがベッドの上にいる。

私はくたりとしたワニの鼻先にキスをする。

本当に宮城はなにを考えているのかわからない。


私の代わりにペンギンのぬいぐるみを。

宮城の代わりに黒猫のぬいぐるみを。


一緒に眠ることができないのならお互いの所有物と一緒に、なんて思って差し出したペンギンの代わりにティッシュカバーがやってくるとは考えてもいなかった。


「まあ、ろろちゃんよりも“宮城のもの歴”が長いけどさ」


もっと言うと、私よりも長い。私は宮城のものになってからそれほど時間が経っていないから、ワニのティッシュカバーの方が先輩ということになる。さらに言えば、ろろちゃんだって先輩だ。ワニも黒猫も私が宮城のものになるずっと前から、宮城のものだった。


はあ。


ため息を一つついて、窓から入り込む太陽の光を避けるように、ペンちゃんのいないベッドの上で寝返りを打つ。私と宮城の部屋を隔てている壁に手のひらをくっつけて、もう一度ため息をつく。


ペンちゃんのいないベッドは広い。


ペンギンのぬいぐるみなんて人間に比べたら小さなものだが、いつもあるものがないベッドは隙間だらけだ。ティッシュ箱のないぐったりしたワニでは埋めることができない。


外側だけを手に入れても駄目なのだと思う。


まるごと全部。

借り物だとしてもすべて手に入れるべきだった。


人も同じだ。

私は宮城の全部がほしい。

――心も体も。


ここにいるワニのような外側だけでは足りなくなっている。わかっているのに宮城の欠片だけでもほしくて物々交換を望んだのは私だけれど、中身のないぐったりしたワニと同じベッドで眠っていてもぐっすりと眠ることはできなくて、ペンちゃんを返してほしくなっている。


あれは宮城が私のために取ってくれたもので、抱き心地がいい。ワニが悪いわけではないけれど、つまらないことばかり考えてしまうからそろそろペンちゃんが必要になっている。


問題は、返してと気軽に言えないことだ。


宮城の部屋で見たペンちゃんは、ベッドの上に丁寧に寝かされていて、親切なことに布団までかけられていた。一緒に眠っているのかはわからないが、枕も与えられていて、大切に扱われていたから返してとは言いにくかった。


そして。

宮城の代わりがほしくて交換してもらったこのワニは、私がこのベッドでしたことを知っている。


私が、宮城のことを考え、ここでしたこと。


それは宮城に話したこともあるけれど、本来ならばその対象である人物に話すようなことではなく、黙っておいた方がいいことだ。宮城から聞かれなければ、口にするようなことではない。


でも、そういうことを私がしたとワニは知っている。


ペンちゃんが喋ることができるのなら、宮城の部屋へ行って見たり聞いたりしたことを私の元へ戻ってきたときに教えてもらいたいと思うが、ワニが喋ることができるのなら口を封じなければいけない。


大きく開く口を一生開けることができないように、ガムテープでグルグル巻きにする必要がある。


もちろん、ティッシュカバーであるワニが喋って、私がしたことを宮城に報告することはないとわかっているが、ワニが知っている夜のことを考えるとこのティッシュカバーを返しにくい。かと言ってペンちゃんだけ返してもらうわけにはいかないだろうから、ワニの処遇について悩み続けている。


私は、はあ、とまたため息をついて、壁にくっつけていた手を離す。体を起こし、中身のないワニの体を整える。


ベッドから下り、スマホを見るともうお昼の用意をしてもいい時間になっていた。ドアを開けて共用スペースへ行くと、鍋を火にかけている宮城に睨まれる。


「仙台さん、遅い」

「まだ十二時前だし、遅くないでしょ。大体、遅いと思うなら声かけなよ」

「呼ばなくても来てよ」

「はいはい」


不満しかなさそうな宮城に返事をして、テーブルの上を見るとパスタの袋とレトルトのミートソースが置いてある。お昼のメニューがわかったが、冷蔵庫には舞茸とえのきがある。きのこをバターと醤油で炒めて和風パスタにしてもよさそうだと思う。


「宮城。お昼、私が作ろうか?」

「いい。私がやるから、仙台さんはお皿出して」


不機嫌な声でそう言うと、宮城が私に背を向ける。火にかけた鍋は見つめ続けなければいけないようなものではないはずだが、彼女は私を見るより鍋を見ていたいらしい。


「私に任せなよ」

「やだ」


短い返事に「お湯沸くまで座ってたら」と声をかけると、宮城が仕方がないという顔をしながら椅子に腰をかけた。


「仙台さんも座れば」


素っ気ない声に「うん」と返して、椅子には座らずに宮城の側へ行く。彼女の黒い髪を梳いて、親指でプルメリアのピアスを撫でる。宮城が着ているパーカーの紐を引っ張って頬にキスをしようとすると、お腹を押される。


まただ、と思う。


澪が帰ってからの宮城は、私からキスをしようとすると嫌がる。でも、キスをしたくないというわけではないらしく、自分からキスをしてきて、ねだるように服を引っ張ってきたりする。


そのくせ、脇腹を撫でたり、腰を撫でたりすると蹴ってくるし、私からキスしようとしなければ宮城はキスをしてきたりはしない。


今日もやっぱり私からのキスを拒んだくせに、宮城は「仙台さん」と低い声で私を呼んでキスをしてくる。


彼女の考えていることはわからないけれど、キスできるのだから文句を言うつもりはない。合わせた唇をこじ開けて舌を入れることも許してくれるし、舌を絡めることも許してくれる。


今も私と宮城は混じり合っている。

私の服は掴まれているし、引っ張られている。


唇を離して、宮城を見る。

視線は反らされてしまうけれど、服は掴まれたままだ。


澪がこの家に来たからこうなった。


宮城の変化に理由を付けるなら、そういうことなのだと思う。だとしたら、それは――。


嫉妬、という言葉が頭に浮かぶ。


宮城はなにも言わないが、その言葉がぴたりと当てはまる気がして、私は騒がしい友人の名前を口にせずにはいられない。


「澪が、今度は宮城の部屋でピザ食べたいって言ってた」


この名前で宮城を変えることができるのなら、変えたいと思う。


「……それ、いつ?」

「さあ?」

「しばらく来ないんだよね?」


宮城の眉間に皺が寄る。

嫉妬してくれたのかどうかはわからない。

嫌がっているだけのようにしか見えないと言われれば、そんなものだと思う。


「たぶんね」

「たぶん、じゃ困る。ちゃんと約束してよ」

「わかった。澪にはしばらくこないように上手く言っておく」

「それ、ピアスに誓って」

「いいよ」


私は宮城に手を伸ばす。

指先でピアスに触れ、「澪のことは任せておいて」と告げて、顔を寄せる。でも、当然のように額を押されてピアスにキスはできない。代わりに宮城が私のピアスにキスをした。


「明日の予定は?」


ぼそりと宮城が言って立ち上がる。


「ホワイトデー楽しみだったりする?」


カレンダーに印をつけたりはしていないけれど、明日はホワイトデーだ。私からなにも言わなくても、彼女から予定を聞いてきてくれたことが嬉しい。


「仙台さんがなんかするって言ったんじゃん。予定ないならなにもしない」

「予定ちゃんとあるから。クッキー一緒に作ったあとに宮城の食べたいもの作るって、バレンタインデーに言ったでしょ。せっかくだから、その前に二人で出かけてもいいし。どうする?」

「その首で外行くの?」


私は自分の首を撫でる。

今日までに宮城がつけた跡で、残っているものが三つ。

それはどれも見える場所にある。


「タートルネック着るし、別にいいんじゃない?」


隠れるかどうかあやしい場所に一つついているが、ポニーテールにでもしない限り目立ったりはしないはずだ。


「今日はどこにもいかない?」


明日の予定に対する答えはなく、話は今日の予定にすり替わる。


「宮城は行きたいの?」

「……ご飯食べたら、仙台さんの部屋に行く」


私の言葉を無視するようにこれからの予定を宮城が伝えてくるが、それは私が望む午後の過ごし方でもあるから文句はない。


「いいよ。映画でも見る?」


今度は問いかけに「うん」と返事がある。

宮城が鍋の前まで行き、蓋を開ける。

パスタを渡すと、彼女は二人分には多すぎる量を鍋に入れた。


Translation Sources

Original