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Chapter 297

「宮城さん、それで足りるの?」


言われるだろうなと思っていたことを向かい側に座っている朝倉さんが言って、私の空になった小さめの器を見た。


そこに入っていたのはうどんで、いつも食べているお昼ご飯に比べると“軽い”ものだ。足りるのかと聞かれるのも無理はないと思う。


「足りた。っていうか、お腹いっぱい」


私は朝倉さんが食べているチキンカツ定食を見ながら答える。


「ダイエット?」


そう言うと、朝倉さんがご飯を大きな口でぱくりと食べた。


「違う、違う」


手をぶんぶんと横に振って誤った認識を訂正する。


「まだ風邪治んないとか?」


斜め前の席でオムライスを食べていた舞香が手を止めて、私をじっと見る。騒がしいお昼時の学食でも彼女の声は私を気遣っていることがわかるものだったから、申し訳なくなってくる。


小さなうどんをお昼ご飯に選んだ理由は、舞香が心配しているようなものじゃない。

もっと馬鹿みたいな理由だ。


「大丈夫。朝ご飯、食べ過ぎただけ」


私は正しい答えを二人に伝える。


この間引いた風邪はすぐに良くなった。

夜、カップラーメンを食べられるほどに。


けれど、私はその後すぐにまた熱を出して、心配性の仙台さんに世話をされることになった。その世話というのがかなりの問題で、風邪が治って元気になった今も続いている。


具体的には、仙台さんが考える“栄養のあるもの”を毎食だされることになっている。今朝も彼女が大盛りの野菜炒めだの卵スープだのと朝ご飯とは思えない量の食事を出してきたから食べ過ぎた。


おかげでお昼になってもお腹があまり空かなくて、小さなうどんで満足できるくらいしか胃に隙間がなかった。


「食欲があるならいいけど。それにしても珍しいよね、志緒理が風邪引くの」

「油断した」

「油断って、スマホ見ながら布団もかけないで寝ちゃったんだっけ?」


そう言うと、舞香がオムライスをぱくりと食べた。


「気がついたら寝てた」

「そういうの、風邪引くよ。って、だから風邪引いたんだった」


朝倉さんの声に「うん」と答えておく。


ペンギンを見に行く場所を探していただとか、髪をちゃんと乾かさずにいただとか、そんなことはわざわざ言うことではないから伏せてある。風邪を引いた理由なんてどうでもいいことで、仙台さんだって正確なことは知らない。


「まあ、でもさ、志緒理は風邪引いても仙台さんいるから安心だよね」


斜め前から舞香の声が飛んできて、朝倉さんが「病気のとき、一人だとやだもんね」と同意する。


一人でいるよりも二人。

風邪を引いて、熱を出したとき、一人は嫌だ。


二人の意見は正しいことではあるけれど、一人でいたら私は風邪を引かなかった。熱を出して寝込んだりなんてしなかった。風邪なんてものには気がつかずに、熱を計ったりすることもなく過ごしていたに違いない。


「私も病気したら仙台さんに来てもらおうかな」


舞香が軽い声で言って、美味しいもの作ってくれそうだし、と付け加える。


その言葉に間違いはない。

仙台さんは風邪を引いた私に、食欲がなくても美味しく食べられるものを作ってくれた。

舞香は事実を言っている。


でも、面白くはない。


「そういうときって、普通は私を呼ばない?」


高校のときとは違って、今は舞香の友だちに仙台さんが含まれているけれど、病気になった舞香の世話をする友だちは仙台さんじゃない。そういう友だちは私だと決まっている。


それに舞香は知らないが、仙台さんは私のもので、ほかの人に貸し出したりするようなものじゃない。


「志緒理、役に立たなそうだし」

「結構役に立つって」

「じゃあ、ご飯作ってくれる?」

「簡単なものなら」


仙台さんが舞香の家へ行って、舞香のためだけに料理を作るなんて駄目だ。仙台さんは私の世話だけしていれば良くて、舞香の世話はしなくていい。


美味しいご飯を作るのも私のためだけでいいし、お昼ご飯が食べられなくなるくらい朝ご飯を作るのも私のためだけでいい。


「おかゆは?」


舞香が仙台さんなら作れそうで、私には作ることができなそうなものの名前を口にする。


「……レトルト持ってく」

「駄目じゃん」


舞香に駄目だと言われても、私が作るよりもレトルトのおかゆのほうが美味しいに決まっているから仕方がない。それにレトルトは馬鹿にできない。時間をかけて作るよりも遙かに美味しいものがたくさんある。


「でも、私もレトルト持ってくかも。おかゆなんて作ったことないし。宇都宮さん作れる?」


問いかけられた舞香が即座に「無理」と答え、「言うと思った」と朝倉さんが笑う。食事は進み、チキンカツ定食が減っていき、オムライスも減っていく。


私の意識は学食を離れ、私たちとは違う大学にいる仙台さんに向かう。


おかゆを食べたくないと言った私におじやを作ってくれた仙台さんは、風邪を引いた私の側にずっといてくれた。


――意識が朦朧としているときも。


ぼやけてあやふやな記憶は、辿っても辿っても正解に辿り着かない。だから、あのとき仙台さんに言ったはずのなにかを思い出すことができずにいる。


葉月、と呼んだような記憶はある。

そして。

ほかにもなにか言ったような記憶がある。


でも、記憶は“言った”ということだけで、内容は思い出せないままだ。仙台さんが夢に出てきたから、夢の中で彼女と話していただけかもしれないと思ったけれどそうじゃない。仙台さんの機嫌がずっといいから、現実の彼女になにかを言ったはずだ。


キスしたい、と言ってはない。

おそらく。

常日頃からそんなことを思っているわけではないから、言うわけがないと思う。


じゃあ、なにを言ったのかと問われると、途端に記憶がかすみ、滲んで、溶けて、消える。彼女の機嫌を考えると悪いことは言っていないようだけれど、それは良くないことでもある。仙台さんの機嫌が良くなるようなことなんて、私にとって都合が悪いことに違いがないはずで、余計な一言でしかないはずだ。


いや、一言ならいい。

二言も三言も、もしかするとそれ以上なにか言ってしまっているのかもしれない。


仙台さんはきっと教えてくれない。

私もきっと思い出せない。


考えるなんて無駄でしかないけれど、考えたくなる。けれど、ざらざらとした音で溢れた学食は考え事には不向きな場所だ。


静かではないここは、風邪でなにもかもがぼんやりしていた世界とはまったく違う。たくさんの人が集まる大学という場所が作り出すくっきりとした世界は、今の私には刺激が強すぎる。元気になったはずなのに、こういう場所にいると、仙台さんの柔らかな声しかない家に帰りたくなってしまう。


「宮城さんも行かない?」


来月公開される映画の話で舞香と盛り上がっていた朝倉さんに名前を呼ばれて、「うーん、どうしようかな」と返す。映画に興味はあるけれど、映画よりも先に守らなくてはいけない約束がある。


とりあえず返事を先送りにして、舞香と朝倉さんの話に相づちを打ちながらぬるくなった水を飲む。鞄の中でスマホが鳴って画面を見ると、仙台さんから『澪とご飯食べてから帰るからちょっと遅くなる』というメッセージが届いていて、ため息が出そうになる。


ゴールデンウィーク中の埋め合わせだと遅くなる理由を補足するメッセージも届いたけれど、ゴールデンウィーク中のなにを埋め合わせなければならないのかわからない。


連休明けの大学は本当に良くない。

連休なんてものはこの世界から消えてしまえばいいと思う。

連休がなければ連休明けなんてものは存在しないし、連休中の埋め合わせなんてものも存在しなくなる。


そんなことを考えながら休みを呪っていると、二人の食事が終わる。

午後の講義を受け、用事があるという朝倉さんと別れて、舞香のバイト先へ行く。


私は一人でオレンジジュースとポテトを頼んで適当な席に座る。

店内はそこそこ混んでいて、そこそこうるさい。

家へ帰りたくなるけれど、今日は早く帰ることに意味はない。


つまらない、つまらない、つまらない。


私が舞香と遊びに行くように、仙台さんも澪さんと遊びに行く。ただそれだけのことなのに、いつもよりもつまらなく感じる。


風邪を引いて仙台さんがいつも以上に私に近かったから、仙台さんがいない時間がいつも以上に耐えられないものになっている。


そういうことを自覚させられたくはない。


乗り慣れた電車の窓に映る見慣れた景色のように、日々の当たり前に埋もれていてほしかった。


看板が変わっているとか、古くなった建物が取り壊されてなくなっているとか、ふとした瞬間にそんな違いに気がつくと、今までの当たり前がなくなってそこばかりを見てしまうようになる。今の私も仙台さんがここにいないことが気になって、そこばかりに意識が向かっている。


私は食べたいわけではないポテトをつまむ。

飲み物だけで席を占領するのは申し訳なくて頼んだポテトは、今日の私には美味しいものじゃない。


仙台さんが作ったものが食べたい。


つまんだポテトをぱくりと食べて、オレンジジュースを飲む。


一人はつまらない。


ため息を一つついて、視線を落とす。

目に床と人の足が映る。

たくさんの足が動いて、人が流れて、鮮やかな色の靴が私の近くにやってくる。


「相席いいかな?」


聞こえてきた声が誰に向けられたものかわからないが、この店は相席するほど混んでいない。


友だちをからかっている。

おそらくそういう類いのものだ。

そんなことを考えて、ポテトをまたつまむと、私の前に誰かが座った。


「こんにちは」


相席していいとは言っていないのに勝手に相席してきた女性が私に微笑む。


黒くて長い髪。

ちょっと怖そうな雰囲気。

過去に会ったことがあって、できればもう会いたくなかった人。


「さて、宮城ちゃん。クイズです。私は誰でしょう?」

「……能登さんです」

「正解。覚えていてくれて良かった」


そう言うと、能登さんが親しげな笑みを浮かべた。


Translation Sources

Original