Chapter 300
共用スペースから三歩。
宮城の部屋に入ると、ぼそぼそとした声が聞こえてくる。
「おかえり」
その声に、彼女が部屋から出てこなかったせいで忘れていた大切な言葉を思い出す。
「ただいま」
柔らかな声を出したつもりだけれど、宮城の表情は変わらない。私のためにドアを開けてから、彼女はずっと眉根を寄せて不機嫌そうな顔をしている。視線は私に固定され、睨んでいるようにも見える。
でも、今は宮城の機嫌が悪くてもかまわない。重要なことは彼女が私の側にいることで、今はそれが叶っている。
だが、大きな問題が一つある。それは今日の機嫌の悪さがいつもとは違うことだ。具体的にどう違うのかと聞かれると困るが、なにかが“違う”ということはわかる。
胸がざわつく。
今日、私に落ち度はない。
――ないはずだ。
遅くなる連絡はしたし、できる限り早く帰ってきた。
ルームメイトとして暮らすルールは守っている。
私は、ベッドの前に立ったまま座ろうとしない宮城の隣へ行き、床へ座る。けれど、すぐに低い声が降ってきた。
「座らないで」
「立ってろってこと?」
「自分で考えれば」
トゲトゲした声は、私が立ったとしても機嫌が直らないことを教えてくれている。
宮城の顔色をうかがう必要はない。
彼女にそんなことをしても無駄だ。買ってきたプリンもアイスも彼女の機嫌を良くするものにはならないだろうし、ほかのものがあったとしても役に立たない。
床に座って投げつけられた不機嫌な声は、立っても投げつけられる。
未来はそう決まっているはずだ。
だからといって、立たないという選択肢はないのだけれど。
「これでいい?」
私は床から立ち上がり、宮城を見る。
「そこ、邪魔だから」
予想通り、宮城が機嫌の悪さを隠さない声で言う。彼女が理不尽であることには慣れているけれど、立っていても座っていても文句を言われるとなると対応に困る。
澪の誘いを断れば良かった。
友だちと会ってはいけないという決まりはないが、この機嫌の悪さの理由になっていそうなものはそれくらいしかない。感情の根底に“嫉妬”という言葉があればいいのにと思うけれど、私は今の宮城からそういったものを読み取れずにいる。
「邪魔じゃないところってどこ?」
むすっとしている宮城に問いかけるが、返事はない。おそらくどこに立っていても邪魔なのだろうと思う。あまり考えたくはないが、今日の宮城には私という存在自体が邪魔なのかもしれない。
馬鹿げた考えだけれど、ありそうな考えに胃の辺りが痛くなる。
このままだと出て行けと言われそうで、宮城から視線を外す。どこを見ていいのかわからないまま足元に視線を落とすと、「仙台さん」と小さく呼ばれる。なに、と返事をすると、また宮城が黙り込んでしまう。
どうしたものかとベッドの上に視線をやると、あるはずのないものが目に入った。
珍しい。
いつも本棚に置いてある黒猫のぬいぐるみが、ベッドの上で壁とにらめっこをしている。ろろちゃんの色よりももっと黒く染まりかけている部屋の空気を変えたくて、私はぬいぐるみを手に取った。
「にゃあ」
黒猫の代わりに明るい声で鳴いてみせると、宮城の眉間の皺が深くなる。
「ろろちゃん、今日はいる場所が違うんだ?」
そう続けて、宮城の眉間にろろちゃんの鼻先をくっつけると、鬱陶しいというように体を押された。
「……勝手に歩いてきたから、本棚に戻しといて」
「ろろちゃんのこと、化け猫みたいに言わないでよ」
ぬいぐるみは自分で歩いたりしない。ということは、ろろちゃんがベッドの上にいたことには宮城が関わっている。簡単に言えば、宮城がろろちゃんを本棚からベッドへ動かしたということだ。
寝てただけ。
宮城が部屋から出てこなかった理由として口にした言葉が正しければ、彼女はろろちゃんと寝ていたことになる。
まあ、寝ていたなんて嘘だろうけれど。
「仙台さんこそ、化け猫とか怖いじゃん。変なこと言わないで」
「化け猫も猫なんだから、可愛いんじゃない?」
なんのためにろろちゃんがベッドの上にいたのか聞きたいけれど、聞けばもっと機嫌が悪くなることはわかりきっている。だから、くだらないことしか言えない。
「可愛くない」
「怖かったら私を呼びなよ。一緒に寝てあげるから」
「二人で寝たら狭いからやだ」
「ケチ」
「けちでいい」
ぼそりと言って、宮城がベッドに腰掛ける。
「私も座っていい?」
「それ本棚に戻してきたら座ってもいい」
宮城がろろちゃんを指さし、私は言われた通りに黒猫をいつもの場所へ置いてくる。そして、彼女の隣に座ろうとすると床を指さされ、私はやっぱり言われた通り床へ腰を下ろした。
向かい側、ベッドの上の宮城に視線を合わせようとすると、足を蹴られる。
仕方なく膝を抱えて、スカートの裾を整える。
「……澪さん元気だった?」
小さな声で問いかけられる。
声は不機嫌そうではないけれど、機嫌が良さそうでもないものに変わっている。
「めちゃくちゃね」
「ふうん」
今、宮城がどんな顔をしているのかわからない。
「仙台さんって大学でなにしてるの?」
答えが一つしかないことを問われて「勉強」と短く答えると、宮城が黙り込んだ。
今日の沈黙は暗い。
墨よりも濃い黒に染まっている。
宮城との間にできる沈黙が気にならなくなってから随分と経つけれど、部屋を染める黒が今日は心の奥まで届きそうで黙っていられない。
「宮城は大学でなにしてるの?」
宇都宮と勉強をしている。
答えがわかりきっている質問を投げかけると、勉強、と平坦な声が返ってきて、あのさ、と言葉が続けられた。
「仙台さん、バイト代って……。卒業したあとのために、貯めてるんだよね?」
流暢とは言えないぼそぼそとした声が聞こえてくる。
「そうだよ」
「……使ってない?」
「宮城、ほしいの?」
「いらない」
さっきまでの声とは違って輪郭が見えそうなほど、はっきりとした声が返ってきて、また空気が流れる音が聞こえそうなほど静かになる。
「宮城、ほしいものないの?」
部屋を覆う沈黙の薄膜を破るように明るく問いかける。
「ない」
「ぬいぐるみ買ってあげようか?」
「買わなくていい」
素っ気なく言うと宮城が小さく息を吐き、くだらないやり取りが途切れる。
今日は変だ。
空気が変わらない。
喋れば喋るほど、私たちの周りが暗く重くなっていく。
「仙台さん」
「なに? ほしいものあった?」
そういう話ではないとわかっていて問いかけると膝に足がぶつけられ、思わず彼女を見上げる。
「……足、舐めて」
小さく、でも、はっきりと宮城が言う。
視線は合わない。
合わせてくれない。
「急にそんなこと言う理由は?」
「五千円払うし、舐めてよ」
「理由になってない」
「理由なんてない。ただの命令」
目を合わせようとしない宮城が「今、五千円もってくる」と付け加え、立ち上がろうとする。だから、私は強く「宮城」と彼女の名前を呼んだ。
「持ってこなくていい」
「どうして?」
「足、舐めないから」
命令というものに従ってもいいと思っている。
足を舐めることも大したことではない。
どちらも宮城が言えばいくらでもする。
でも、理由もなく五千円を払うからなんて言う宮城の足は舐めたくない。
今の私たちに五千円は必要のないものだ。それを払うということは、大学生になって作り上げた関係をすべて否定するようなものだと思う。
「……なんで?」
「ルームメイトはそういうことしないと思うけど」
「仙台さん、自分から舐めようとしてきたことあるじゃん。なんで今日はそういうこと言うの?」
平坦だった声が不満を滲ませるものに代わり、床にぺたりと着いていた足が私を柔らかく蹴る。
「今日どうしたの? なにかあった?」
宮城がおかしい。
それ自体は珍しいことではないけれど、不機嫌の方向がおかしい。彼女の機嫌は迷子になっている。ただ、それがどうしてかはわからない。
「……ルール」
聞き逃してしまいそうな低い声がベッドの上から降ってくる。思わず「え?」と口にすると、今度は私が理解できる言葉が聞こえてきた。
「去年、一緒に住むためのルール決めたよね? 覚えてる?」
「もちろん」
友だちは呼んでもいいが、泊めない。
遅くなるときは連絡をする。
こまごまとしたルールがほかにもあるけれど、絶対に破れないものはこの二つだ。今日もこのルールを守って、宮城に遅くなると連絡をして、この家に泊まりにきたいという澪にノーを突きつけた。
「そのルールいらない」
約束にこだわる宮城が言いそうにないことを言い、私の口からは「えっ」という言葉がこぼれ出る。
「ルームメイトのルール、もういらないから」
宮城はそう言うと、ベッドの上で膝を抱えた。