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Chapter 303

大学へ行きたくない。


部屋の中をゆっくりと一周する。

いつもより一時間も早く目が覚めて、着替えもしたし、準備は整っている。


でも、大学へ行きたくない。


行けば舞香に会うし、会えば昨日のことを聞かれる。


志緒理と喋ってた人、仙台さんの先輩だよね?


昨日、彼女のバイト先での出来事についてそんなメッセージが来ていたから「そうだよ」と返したら、「あの辺りに住んでるの?」とか「なんで相席?」なんて聞かれることになった。


結局、適当に「よくわからないけど、偶然会って仙台さんの話をした」というようなあやふやな返事を送っておいたけれど、追及から逃れられたわけじゃなかった。


だから、昨日のことを聞かれないなんて奇跡は起きない。


話の内容は誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せる。けれど、能登さんの話はしたくない。


はあ、と大きく息を吐く。


舞香のバイト先へ行くんじゃなかったと思う。


寄り道なんてせずに真っ直ぐ家へ帰れば良かった。そうすれば能登さんに会うことはなかったし、仙台さんの話をすることもなかった。なにもなければ、昨日、仙台さんが買って来たプリンかアイスのどちらかを食べて、二人で少し話をして、ルームメイトのまま一日が終わり、今日もルームメイトのままだったはずだ。


――駄目だ。


後悔しちゃいけない。

昨日のことを後悔するということは、昨日のことを思い出すということで、それは昨日の自分が仙台さんに言ったことを思い出すことに繋がる。


はあ、とまた大きく息を吐いて、本棚の前に立つ。


黒猫と目が合う。

胃が重くなる。


「……にゃあ」


黒猫にわかるように文句を言う。

ぬいぐるみが歩いて本棚に戻ってくれなかったせいで、私が黒猫をベッドの上に置くことがあるということを仙台さんに知られてしまった。


最低だ。


昨日は私が言う言葉じゃない言葉をたくさん口にしてしまった上に、絶対に見せたくなかったものまで見せてしまった。


黒猫の額を人差し指でぐりぐりと押す。


私が黒猫を側に置くことがあるということは誰にも言わない私だけの秘密だし、黒猫が側にいると落ち着くことも私だけの秘密だ。


本当に面白くない。


今までずっと気をつけて、用心深く、忘れずに黒猫をあるべき場所に戻していたのに、昨日は忘れてしまった。


あんな私は私じゃない。


黒猫をベッドの上に置いているような私は私じゃない。仙台さんにルームメイトをやめると言ったり、したいと言ったりするのも私じゃない。


仙台さんだって変に思ったはずだ。


私はまた部屋をぐるりと一周する。

後悔はしちゃいけないとわかっているのに後悔してしまう。


こんな日は大学を休んでもいい。


そう思う。

大学に行っても今日の私は役に立たない。


でも、仙台さんに会わないというわけにはいかない。そろそろ仙台さんが起きてくる時間だし、部屋に閉じこもっていたら、彼女は私が出てくるまでドアをノックし続ける。


きっと私が大学へ行かなければ、仙台さんも行かない。ずっと家にいる。ドアの前で部屋から出てこない私を待つ。


私のせいで仙台さんが大学を休むようなことになったら悪いと思う。

そう思うのに、二人で大学を休むのも悪くないと思う私もいる。

ずっとずっと大学を休めば、舞香に追及されることもない。

仙台さんをこの家に閉じ込めておくこともできる。


そこまで考えて、仙台さんが今日バイトだということに気がつく。


「駄目じゃん」


具合が悪いとか、どうしても行かないでほしいとか。


そういうことを言えば、大学は休んでくれると思う。けれど、絶対にバイトには行く。私だけのものになってもそれは変わらないはずだ。


ルームメイトと引き換えに手に入れたもの。

それに不満はないけれど、それは万能じゃない。


大体、仙台さんとどんな顔をして話をすればいいのかわからなくなっている。昨日と同じ顔でいいのか、違う顔をするべきなのか。なにもわからないから落ち着かない。


「どうしよう」


黒猫に話しかけて、ドアを見る。

今日一日をどう過ごせばいいのかわからなくても、ずっと部屋に閉じこもっているわけにはいかないことはわかる。少なくとも朝食の時間には絶対に部屋から出なければいけない。


私はため息を一つつく。


どうせ顔をあわせることになるのなら、仙台さんよりも先に共用スペースにいたほうがいい。部屋に呼びに来られたり、あとから共用スペースに行くほうが気まずそうだ。


息を吸って、吐いて、ドアの前へ行く。

また息を吸って、吐いて、ドアノブをぎゅっと握って勢いよくドアを開ける。


「わっ」

「えっ!? 仙台さん?」


ぶつかりはしなかった。

でも、開けたドアの前に仙台さんがいて驚いた。


ノックはされていない。

声も聞こえなかった。


心ここに在らず過ぎて聞こえなかった可能性もあるけれど、仙台さんの表情からしてそれはないはずだ。何故なら彼女も驚いている。私が部屋から出てくることを予想していなかったようにしか見えない。


「……おはよ、宮城」


ぼそぼそと仙台さんが言う。

珍しい。

今日の彼女は私と視線を合わせようとしない。


「おはよ。……なんでこんなところに立ってるの?」

「一緒にご飯の用意しようかと思って。……手伝ってもらってもいい?」

「うん。なに作るの?」

「んー、なににしようか」


仙台さんが私を見ずに言って、冷蔵庫に向かって歩いて行く。私はその後をついていく。足音がして、すぐ止まる。それは仙台さんが足を止めたからで、あとをついて歩いていた私も足を止めることになった。


テーブルの近く。

仙台さんが振り返る。


「ご飯作るんじゃないの?」


問いかけると「うん」と返ってきて、手首を掴まれる。

そして、軽く引っ張られ、抱きしめられた。


「こういうの、していいって言ってない」


許可した覚えのないことをする仙台さんに文句を言う。


「しちゃ駄目なの?」

「駄目」


はっきりと拒否したにもかかわらず、私を抱きしめる腕に力が込められる。


背中に回った腕。

くっついた体。

私と同じ匂いのシャンプー。


どれも気持ちのいいもので、心臓がいつもの倍くらい速く動き出す。


「キスはしてもいい?」


耳元で声が聞こえる。


「今は駄目」


ぎゅっと抱きしめてきているのに強すぎない腕。

柔らかな体。

さらさらの髪。


どれも私だけのもので、心臓がうるさい。


「宮城のけち。それじゃなにも変わらないじゃん」


文句を言っているのに、柔らかな声が心地いい。


「変わらなくていいから、早くご飯作ろうよ。大学遅刻する」


仙台さんを押し離して、腕の中から逃げる。


「遅刻するような時間じゃないと思うけど」

「仙台さん、うるさい。なにすればいいか言って」


余計なことしか言わない仙台さんの足を踏む。

それなりに足に力を入れると、さっきまでずっと目を合わせてくれなかった彼女と目が合った。


「じゃあ、宮城は卵とハム出してくれる?」

「わかった」


踏んでいた足を解放して、冷蔵庫に向かう。

言われた通りに卵とハムを出す。

仙台さんがそれをフライパンで焼いている間に食器を用意する。


朝食の準備はすぐに終わって、いつものように椅子に座る。


テーブルの上には目玉焼きとハム。

ご飯と味噌汁。

箸と箸置きの猫。

向かい側には大事なものに住んでいる人。


朝食のメニューは日によって変わるけれど、食器や箸置きの猫は変わらない。そして、仙台さんはルームメイトではなくなったけれど、一緒に住むためのルールは変わらない。

この家には変わるものと変わらないものがある。


「仙台さん、一緒にプリン食べるから早く帰ってきて」


この前は豆腐だったけれど、今日は麩の味噌汁を飲む。

いつもと同じように美味しい。


「プリンって、昨日買って来たプリン?」


目玉焼きを食べていた仙台さんが私を見る。


「そう」

「アイスもあるけど」

「プリンでいい」

「なるべく急いで帰るけど、バイトあるし、いつもと同じくらいになっても大丈夫?」

「いつも通りだったら罰ゲーム」

「いつも通りって、何時? 規定の時間教えてよ」

「それは仙台さんが帰ってきてから、私が判定する」

「ええー」


仙台さんがわざとらしく声を上げると、「それ、酷くない?」と続けた。


「酷くない」

「まあ、いいけど。その代わり私が宮城が思う早い時間に帰ってきたら、宮城が私のいうこときいて」

「やだ」


仙台さんの交換条件はあまりいいものじゃない。

私が困るようなことばかり言う。


「いいじゃん。難しいことは言わないからさ」

「難しいことじゃないことってなに?」

「それは帰ってきてからのお楽しみ」


そう言うと、仙台さんがにこりと笑った。


Translation Sources

Original