Chapter 322
何度しても慣れない。
昨日したことは、私だけの仙台さんが私だけとしかしないことで、もっとたくさん仙台さんとああいうことをしたら慣れる日が来るのかもしれないけれど、慣れるほどそういうことをする私というのは想像できない。
でも、頭の中に残っている仙台さんだけじゃ足りないと思っている。私には、夢に見るくらい仙台さんが足りていない。
澪さんと舞香が遊びに来たり、私から仙台さんに触れたり。
滅多にないことが重なったせいで、昨日のことがしっかりと記憶に残り、昨日の仙台さんを忘れられない私になって、昨日じゃない仙台さんも知りたい私になってしまった。
そのことは後悔していないけれど、昨日、澪さんに言われるままに舞香を呼んでしまったことは後悔している。
「仙台さんのキスマークってほんとはなんなの?」
舞香が好奇心を隠さずに聞いてくる。
朝からことあるごとに昨日あった出来事について語っていた彼女の口から出てくる話題は、大学近くのカフェに入った今も変わらない。
後ろの席から聞こえてくる恋人への愚痴に舞香の声が紛れて消えてしまえばいいのにと思うが、店内の騒がしさに負けるような声ではなかったから、答えないわけにはいかない。
「わかんない。澪さんがキスマークだと思っただけじゃないの」
大学が終わっても興味が尽きない彼女にそれらしい答えを返す。
昨日、澪さんを呼んだことで、知られたくないことを知られたくない人たちに知られることになった。私が仙台さんに付けたキスマークの話もその一つで、舞香が好奇心に任せて話続けている。
どれも自分が発端で自業自得でしかないのだけれど、みんなの記憶を消せるものなら消し去りたい。
「まあ、そう言われるとそうなんだけど。……志緒理、なんか知らないの?」
「たぶん、本人が言ってるようにやけどだと思うけど」
「うーん、だよねえ。仙台さん、付き合ってる人いたら教えてくれそうだしなあ。もしキスマークだったら、付けたのは彼氏じゃないってことになるけど、仙台さんって遊びでそういうことする人じゃないでしょ?」
「うん」
私は小さく答えて、アイスティーを飲む。仙台さんが選んだリップを塗った唇がストローに触れ、冷たい液体が流れ込んでくる。
舞香は今日、バイトが休みで時間を持て余している。彼女は仙台さんが今日は家庭教師をしていて帰りが遅いことを知っているから、簡単には解放してもらえそうにない。
仙台さんのいない家にいてもつまらないが、今日は一刻も早く帰りたい。待つのは好きじゃないけれど、仙台さんは待てば帰って来るし、この話を延々としているよりも遙かにマシだ。
「でもさ、澪さんってそういうの、見間違えたりしない感じじゃない?」
向かい側で舞香がパンケーキを小さく切ってぱくりと食べる。テーブルの上のパンケーキは半分ほどが彼女の胃に消えているけれど、キスマークの話は消えない。
「どうだろ。人間だし、見間違えることもあるんじゃない。そういえば舞香、なんでバイト先の人のこと話してくれなかったの?」
消えない話は違うものに変えるしかなく、私は昨日聞いた新情報を持ち出す。
「バイト先の人って、格好いい人のこと?」
「そう。その人のこと好きなんじゃないの?」
私はチーズケーキをじっと見て、フォークで切る。ぷすりと刺して口に運ぼうとすると、舞香が言った。
「昨日も言ったけど、付き合いたいとかそういうのじゃないし、好きっていうのとは違うかな」
「そうなんだ。でも、話してくれたら良かったのに」
チーズケーキを一口食べて舞香を見る。
「志緒理、こういう話苦手じゃん」
まあ、確かに。
舞香の言うとおり、こういう話はあまり好きじゃない。
誰が格好いいとか、誰と誰が付き合っているとか、そういう話に興味が持てないし、「志緒理はどうなの?」なんて聞かれても困る。面倒なことにしかならないから、避けたい話題でしかない。
「で、志緒理には気になる人いないの?」
回り回ってこうなるとは思ったけれど、キスマークの話を続けるよりはいい。
「別にそういう人いない」
「隠してない?」
「舞香に隠したりしないって」
「仙台さんのことは隠してたのに?」
舞香が笑いながら言う。
「……それはごめん」
仙台さんとルームシェアをしていたことを黙っていたことは悪かったと思っている。
どこかで話さなければいけないと思っていたけれど、説明しなければならないことが多すぎて自分から言うことができなかった。
「お、反省してる」
「してるから許して」
口にした言葉に嘘はない。
海より深く反省している。
「そう言えばさ、仙台さんに能登さんのこと話してなかったんだね」
思い出したように舞香が言い、にやりとする。
「あー、うん」
隠し事は良くない。
バレたときに大変なことになるのだから、話せることは話しておいたほうがいい。
そう思っているけれど、言えないこともある。能登さんが変なことばかり言うから、仙台さんに彼女のことを隠すことになってしまった。
「あれ、仙台さんに言えないような話だったの?」
「そういうわけじゃなくて。単純に忘れてた」
ルームシェアをするにあったって決めたルールには、隠し事をしてはいけないというものはない。
だから、黙っていても咎められることはないはずのものだけれど、隠し事は嘘を連れてくる。そして、心を重くする。
「志緒理の秘密主義、良くないと思うよ。仙台さん、心配性っぽいし」
舞香の言葉が刃となって胸に深く刺さる。
それは簡単には抜けないほどの深さで、この場に倒れてしまいたくなるほど痛い。
「これから気をつける」
能登さんの話は、どんなものにも興味がなさそうな仙台さんが酷く気にしていた。彼女が私に興味を持ってくれるのはいいことだけれど、どう話せばいいのかわからないくらい面倒なことしか言わなかった能登さんごと興味を持たれるのは嬉しくない。
でも、能登さんに会ったことくらいは話すべきだったとは思う。言わなかったせいで、余計にややこしいことになっている。
「あと私も志緒理にいろいろ話してほしいと思ってる。私も話すしさ」
「うん、話す」
今の私と仙台さんのことは話せない。
でも、知ってほしいと思っている私もいる。
仙台さんが私のもので、私以外の人間が彼女にキスマークをつけたりしないことを知ってほしいと思っている。
いつか舞香に――。
そういう日が来るのかどうかわからないけれど、隠し事は減らしたい。
「じゃ、約束ね」
舞香の言葉に手が反応する。
仙台さんが選んだピアスに触りそうになって、手を止める。
ピアスと約束とキス。
仙台さんとキスをしたいわけではないけれど、彼女がピアスにしたキスが頭に浮かぶ。
「約束する」
私はなるべく明るい声で舞香に言って、チーズケーキを一口食べた。