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Chapter 325

テーブルの上には仙台さんの鞄。

見上げた先には仙台さんの表情のない顔。


不穏とまではいかないけれど、今の共同スペースはあまりいい空気じゃない。


「バイト? 宮城が? 嘘でしょ」


私の前に立ったまま仙台さんが感情のない声で言う。


「嘘つくようなことじゃない」

「……おかしいじゃん。私の知ってる宮城はバイトしない」

「私だってバイトくらいする。大学生だし、舞香だってしてる」


バイトなんかみんなしている。

舞香だけじゃなく、朝倉さんだってしているし、仙台さんだってしている。

だから、私がバイトをしたっておかしくない。


――気は進まないけれど。


「もしかして宇都宮に誘われた?」

「誘われてない」

「じゃあ、誰に誘われたの?」

「誰にも誘われてない」


きっぱりと言うと、疑いの眼差しが向けられる。でも、本当に誰かに誘われたわけじゃない。自分でバイトをすると決めた。


「……バイトする理由は?」


私の真意を探るような声が聞こえてくる。


「お金がほしいから」

「そうじゃなくて。バイトで得たお金でなにがしたいのか知りたいんだけど。なにか欲しいものでもあるの?」


仙台さんがさっきよりも強い声で言う。

それは高圧的と言えるようなもので、尋問、という言葉が頭に浮かぶ。


例えるならば仙台さんが刑事で、私が犯人だ。


けれど、私はなにも悪いことはしていない。


「それは仙台さんに言う必要ない」

「なんで? 教えてくれたっていいじゃん。それとも言えないようなものが欲しいの?」


隠すほどのことではないけれど、言いたくはないことにバイトで得たお金を使いたい。言ってしまうと、大げさすぎるものになって買う予定のものが渡せなくなりそうだ。


「……なんでもいいじゃん」


私が宮城のものだってわかりやすくしようかなって。


仙台さんが言った言葉がずっと頭に残っている。


水族館へ行った日、彼女は高校生だった私が渡したネックレスを“印”の代わりに付けていて、もっとお洒落なネックレスを印の代わりにしたらいいと告げた私に「宮城が選んでよ」と言った。


私はあれからずっと“私のものだとわかる印”として新しいネックレスを仙台さんに身に着けさせたいと思っている。


そして、そういったものを買うのなら、それはお父さんからもらったお金ではなく、私のお金で買うべきだと思っている。


「隠されると気になるじゃん。教えてよ」

「大したものじゃない」


絶対に言いたくない。

言えば後戻り出来なくなる。


バイトをすると言ったものの、私にバイトというものが向いているとは思えないし、仙台さんに彼女が身に着けるようなものを渡すべきか逡巡している。


彼女には、私が選ぶものよりももっと似合うものがあるはずだ。


ピアスだって、私じゃない誰かが選んだほうが仙台さんに似合うものになったと思っている。私は私が選ぶものに自信がない。


それでも仙台さんに澪さんと仲良くするように言ってしまったから、仙台さんが澪さんと会ったときに“私のもの”だとわかる印を用意しなくちゃいけない。


「ほしいものがあるなら、あのお金使えばいい」


仙台さんが私の決心を鈍らせるようなことを言う。


“あのお金”というのは、高校生だった私が仙台さんに渡していた五千円の集合体だ。

でも、“あのお金”は私が使うものではないと思う。


私が渡したものではあるけれど、元々はお父さんのお金だし、貯めたのは仙台さんだ。そんなお金で買ったものは、印に相応しくない。だから、仙台さんにネックレスを渡すなら嫌でもバイトをするしかない。


「やだ。使いたくない」


私は今日、仙台さんが澪さんとご飯を食べてくると知ってむかついた。前言なんてゴミ箱に捨てて、澪さんと仲良くしてなんて言ったことをなかったことにしてしまいたい気持ちになった。


私にはこの気持ちをどうにかするものがいる。


「バイト先って決まってるの?」

「決まってない」

「じゃあ、一緒にバイトしようよ」


仙台さんが、椅子に座っている私に一歩近づく。


私の進路を塞ぐように立っていたから、もともと近かった距離がさらに近くなる。今日の仙台さんは少し怖くて、逃げ出したくなる。でも、彼女が私の前に立っているから逃げられない。


「バイトは一人でする」

「なんで? まだどこでバイトするか決まってないんでしょ。一緒にバイトできるところにしようよ」

「仙台さんとはしない。とりあえず、少し後ろに下がってよ」

「宮城が下がれば」

「椅子に座ったまま?」

「そう」

「無理じゃん。見ればわかるよね?」

「わからない」


仙台さんが私の手を掴む。

視線が合って、彼女の手にぎゅっと力が入って、少し痛い。


「はなして」

「……はなしてほしかったら、バイトなんてやめたら?」


少し前まで私が仙台さんに言っていたようなことを言われる。


私は仙台さんとは違う。

バイトをやめたらと言われたら、やめたくなる。


もともとバイトがどうしてもしたいわけじゃない。隙があればやめたいという私が顔を出して、「自分のお金じゃなくてもいいじゃん」と耳元で囁いてくる。


私の意思は綿飴のようにふわふわで柔らかい。ちょっとしたことで溶けて消えてしまう。


「宮城」


仙台さんが小さく私を呼んで、繋がったままの手にさらに力を入れる。その手を思いっきり引っ張ると、彼女はバランスを崩して私が座っている椅子の背もたれを掴んだ。


近づいた距離を私からも縮めて仙台さんの唇を塞ぐ。


二秒か、三秒。

足りないと思うくらいの時間キスをして、離れる。


「バイトしていいって言ってよ。……私だって仙台さんのバイト許してるんだから」


繋がっている手を無理矢理剥がして、仙台さんのお腹を押す。


近づいていた距離が離れて、「そうだけど」と不機嫌そうな声が聞こえてくる。


許可を取る必要はないのかもしれないと思う。

けれど、仙台さんはバイトをするとき、私に許可を求めてきた。だから、私も同じことをする。


「文句があるなら、仙台さんもバイトやめて」


バイトに不満があるのは仙台さんだけじゃない。


それは私にもあって、ずっと仙台さんのバイトは歓迎できないもので、やめてほしいもののままだ。


家庭教師の生徒に会う仙台さんというものを許容しているけれど。


本当はむかついているけれど。


家庭教師の生徒なんてものには会わないでほしいけれど。


私はバイトをする仙台さんを許し続けている。


「仙台さん、黙ってないで答えてよ」


口を開かずにいる仙台さんの足を軽く蹴る。


「……じゃあ、バイトするの許すからもう一度キスして。ちゃんと」


仙台さんが不承不承という言葉がぴったりな態度で言って、私の腕を掴んだ。


「ちゃんとって?」


キスに“ちゃんと”というオプションがついたときにどうすればいいのか。


わかっているけれど、一応尋ねると「教えてほしい?」という面白くない答えが返ってくる。こういうときの仙台さんはろくなことをしないから、くだらないことをしてくる前に彼女の足をむぎゅりと踏む。そして、立ち上がり、柔らかそうな唇にキスをする。


仙台さんの手が私の腰に回され、体がくっつく。


彼女のほうからなにかをしてくることを許可した覚えはないのに唇を押しつけてくるから、傷にならない程度に歯を立てる。


仙台さんは離れない。

少し強く噛むと、もっと体が寄ってくる。


私は薄く開いた唇を割って舌先を押し入れ、彼女のそれに触れる。弾力があって柔らかなものが、絡みついてくる。


ほんの少しだけ熱を交換することを許してから、唇を離す。


「足りない」


仙台さんがぼそりと言う。


「足りなくてももうしない。自分の部屋に行く」


そう言って仙台さんの横を通ろうとすると、腕を掴まれる。


「宮城。バイトってどれくらいの期間するの?」

「わかんない」

「決めてないの?」

「これから決める」

「宮城っていつもノープランだよね」


呆れたように仙台さんが言い、掴んでいた私の手を離した。でも、すぐに絡み合っていた舌先のように私の手に指を絡めてくる。おかげで私は部屋へ行くことができない。


「いつもじゃない」


低い声を返して繋がった手を離そうとするけれど、離れてくれない。


「夏休みもバイトするの? 予定知りたいんだけど」

「予定?」

「時間あるかなって」

「時間あったらなんなの?」

「夏休みに二人でどこか行きたいかなって。来年は忙しそうだしさ」


予想もしなかったことを言われて、手の力が抜ける。


「どこかってどこ?」

「一泊二日くらいでいいから温泉」

「やだ」


温泉なんて絶対に駄目だ。


「なんで」

「温泉ってお風呂入るじゃん」

「まあ、そうだろうね。なにか問題があるの?」

「ある。仙台さん、絶対に一緒に入ろうって言うもん」

「温泉行ったら一緒に入るでしょ、普通」


それが当たり前だというように言われて、仙台さんを睨む。


「そういう普通、私にはないから」


お風呂に入るには裸にならなきゃいけない。

仙台さんといるときに、守るものがない状態になるなんて無理だ。


「じゃあ、温泉じゃなくてもいいからさ、どこか行こうよ」

「行くところ、仙台さんが勝手に決めないならいい」

「了解。二人で相談ね」


そう言うと仙台さんが当然のようにキスをしようとしてくるから、私は彼女の足をそれなりの力で踏んだ。


Translation Sources

Original