Chapter 328
納得できない。
なんで。
どうして、どうして。
――どうして宮城はバイトをするんだろう。
夕焼けに染まった歩道を大股で歩く。
暖かくも冷たくもない風が吹いて、髪をなびかせる。
ダンッと足を踏み出して、歩道に敷き詰められたタイルを真っ二つにする勢いで家へと向かう。
『バイト、澪さんに紹介してもらった』
朝、大学へ向かう電車に揺られているときにそんなメッセージが宮城から届いて、大学に着いたら澪に「志緒理ちゃんにバイト紹介しちゃった」と言われた。
澪のその言葉から予想はできたが、それでも一応詳しい話を聞いた結果、宮城のバイト先は私もバイトをしていたカフェで、能登先輩が常連客になっているカフェだとわかった。
なんでそんな余計なことをしたのか。
澪を問い詰めそうになったけれど、なんとか笑顔で「そうなんだ」と返すことができた。でも、バイト紹介犯と楽しい時間を過ごすことはできず、ご飯を食べに行こうという誘いに乗ることはできなかった。
六月も半ばを過ぎて、七月が近づいている。
忙しい日々を過ごしていれば夏休みなんてあっという間にやってくるはずで、そろそろ宮城と休みの予定を立てるつもりだった。けれど、その前に、宮城のバイト先を聞いてショックを受けるつもりはなかった。
彼女がバイトをやると言いだしてから二週間以上経ってもなんの進展もないようだったから、バイトは諦めたのだと思っていた。
私は一刻も早く家に帰らなければならない。
宮城に言いたいことが山ほどある。
大体、私の友だちである澪にバイトを紹介してもらうこと自体がおかしい。
澪は家に遊びに来たときにバイトを募集していると言っていたが、そんなことは関係ない。澪は私の友だちなのだから、宮城が勝手に頼るべきではない。頼るなら、私に一声かけてからだ。
そして、澪も宮城にバイトを紹介するなら私に許可を取るべきだ。
それに、宮城が澪を頼ったことも、頼られた澪がそのことを私に黙っていたことも面白くない。
宮城にも澪にも腹が立つ。
夕暮れの街、家が近づく。
流れる景色は目に入らない。
視界は狭まり、宮城に続く道だけが見える。
わかっている。
宮城も澪も私になにか言う必要がないことくらい。
それでも納得できないから、早足になる。
階段を上って三階、玄関の前に立つ。
息を吸って、吐いて、頬を叩く。
気持ちを落ち着けて鍵を開ける。
ドアを開けて中へ入ると、宮城の靴があった。
私はその隣に靴を並べて共用スペースへ行く。
宮城はいない。
自分の部屋に荷物を置いて、宮城の部屋のドアをノックする。
トン、トンと二回。
少し間があってドアが開く。
「……おかえり」
宮城が私と目を合わさずに言う。
「ただいま。中、入ってもいい?」
「やだって言ったら?」
「宮城が共用スペースに出てきて」
手を掴んだりはしない。
ただ、不機嫌そうな声になった自覚はある。
「……入って」
仕方がないというように宮城が言って、ドアを大きく開けてくれる。声色から私が招かれざる客だということはわかるが、入らないという選択肢はない。
遠慮なくいつもの場所に座って宮城を見ると、彼女はドアを閉めてから渋々と私の隣に座った。
「バイト、澪のところでするって聞いたけど」
宮城をじっと見て言う。
「澪さん、仙台さんに話しちゃったんだ」
ぼそぼそと小さな声がして、澪に不満があることがわかる。
「志緒理ちゃん、バイトが決まるまでは葉月に内緒にしてたいって言ってた。可愛いよね。……って、澪が言ってた。志緒理ちゃんに言われた通り、バイトの返事もらうまでずっと内緒にしてた私えらくない? とも言ってたけど」
朝、澪から聞いたことを宮城に伝えると、彼女の眉間に皺が寄る。でも、それだけで宮城はなにも言わない。眉間に深く皺を刻んだまま、床を睨んでいる。
だから、メッセージで伝えずに言葉で伝えると決めていたことを口にする。
「あのさ、宮城。やっぱりバイトするのおかしくない?」
「おかしいってどこが?」
「冬休みに一緒にバイトしようって誘ったとき、バイト向いてないって言ったじゃん」
「そのとき、仙台さんとはバイト一緒にしないって答えた」
宮城が答えを用意していたかのように淀みなく答える。
どういうわけかバイトに対する宮城の意思が固い。
本当はバイトをしてほしくはないが、諦めさせるのは難しそうだと思う。バイトをする彼女を受け入れるしかないことは予想できていたから、百万歩譲ってバイトは許してもいい。
けれど、バイトをする場所は変えてほしい。
あのカフェだけは駄目だ。
いろいろと問題がある。
能登先輩が常連客であることも問題だし、私の知らない宮城を澪が見ることも問題だ。それにあのカフェには、澪や私の連絡先を聞き出そうとしてくるお客さんもいる。
「……カフェのバイトって、宮城に向いてるの?」
「向いてるかわかんないけど、表に出なくていいキッチンだからできる」
「だったら、ほかのカフェのキッチンにしなよ」
「もう決めちゃったし、変えるの無理。今断ったら、澪さんに迷惑かかるじゃん」
「そうだけど。……澪には私が謝っておくから、違うバイトにしなよ。私が探すしさ」
「探さなくていい。自分のバイトは自分で決める」
宮城がきっぱりと言って、私を見た。
どうやっても彼女の気持ちは変わらないらしい。
仕方なく、私はもう一つの言いたかったことを口にした。
「……バイトのこと、澪に頼んだのはなんで?」
「ほかに頼れる人がいなかっただけ」
「私は? 私もバイトくらい紹介できる」
「仙台さんに頼んだら、絶対に一緒にバイトするって言うもん」
「言ったら駄目なの?」
「駄目」
去年、バイトに誘ったときのように宮城が私を傷つけるようなことを言う。
私は親に拒絶されることも、姉に拒絶されることにも慣れている。誰かに拒絶されてもそんなものだと思う。どれだけ溝が深くなっても深い溝を埋めたいとも思わない。
事実を粛々と受け入れて明日を待てばいい。
時間が経てば、深くなった溝は闇に消えて見えなくなる。
でも、宮城からは否定されたくない。
拒否も拒絶も。
私を遠ざけるようなことは言われたくない。誰になにを言われても傷つかない私は、宮城の言葉で簡単に傷ついて血を流す。
「駄目なんて言わないでよ」
よく言われる言葉ではあるけれど、今日の“駄目”は駄目だ。
私は宮城の手を掴む。
強く、強く。
「バイト一緒にしなくてもいいし、バイトしてもいいから、駄目って言うのやめなよ」
思ったよりも小さな声になる。
宮城のバイト先は今も気に入らない。
けれど、それ以上に、宮城から否定されたくない。
「……苦手なことしてるの、仙台さんに見られたくない」
宮城が私の手を強く握り返し、一緒にバイトをしたくない理由を告げてくる。
こういうわかりやすい宮城は珍しいけれど、優しくはない。続いて聞こえてくる言葉も思いやりのある言葉とはほど遠いもので、耳を塞ぎたくなる。
「仙台さん。最初に言っておくけど、絶対に私がバイトしてるときにカフェに来ないで」
「キッチンにいるなら私が行ったっていいでしょ」
「やだ」
宮城の“理由”は納得できるものだった。
上手くいかない自分を見てほしくない。
それは宮城ではなくても思うことで、受け入れがたいものではない。それでも私は宮城の言葉を受け入れたくないと思っている。
「行きたい」
こういう話をしていると、高校の文化祭を思い出す。
あのとき宮城のクラスはカフェをやることになっていて、私はウェイトレスをするという彼女に「見に行こうかな」と言ったけれど、来なくていいと言われた。
「絶対にやだ。なんか今日の仙台さん、我が儘すぎる」
「宮城だって我が儘じゃん。私がバイトしてるときは来たのに」
「それはそれ、これはこれじゃん」
今になって思う。
私はなにがあっても宮城を見に行くべきだった。
羽美奈がいても気にせずに宮城のクラスへ行くべきだった。
文化祭の宮城を見ることができなかった私を繰り返したくない。
「そうだね」
とりあえず。
私は、この場を収める言葉でしかない言葉を口にした。