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Chapter 357

「あー、もうっ」


――昨日、着ないって言えば良かった。


返事を先送りにしたせいで、断りにくくなってしまった。


私はベッドに寝転がる。


お祭りに行く。

その約束を破るつもりはない。

でも、浴衣を着るという約束はしていない。


最近の私は、随分と仙台さんの意思を尊重してきた。

だから、今日は譲歩する必要がないと思っている。


迷うことなんて、ない。

絶対に。


スマホを手に取り、昨日何度か見た着付けの動画を見る。

楽しそうには思えない。

そして、昨日見た浴衣が私に似合うとも思えない。


着ない、着る、着ない。


私はスマホを置いてえいっと立ち上がり、部屋を出る。

お昼ご飯を食べたし、そろそろ返事をしなければならない。


ダイニングキッチンをぐるりと一周まわってから、仙台さんの部屋の前に立つ。ドアを睨み付けてから一回ノックすると、「入って」と声が聞こえてきて、私は部屋に入った。


「決まった?」


ベッドの前に立っている仙台さんが柔らかな声で言う。


彼女の後ろに、昨日と同じように並べられた浴衣が見える。

私が浴衣を着ると答えることが決まっているようで、眉間に皺が寄る。


本当に仙台さんは面白くないことばかりする。


私は彼女の前まで行って、足をぎゅっと踏む。


「……藤色のほうがいい」


昨日見た浴衣で、今日も同じ場所にある浴衣の片方を選ぶ。


「浴衣、着てくれるんだ?」

「仙台さんのそういうところ、むかつく。着なくてもいいなら、着ない」

「着てほしい。この浴衣、宮城に似合うと思って買ってきたから」


綺麗な花が咲いた藤色の浴衣に、仙台さんが視線をやる。


「じゃあ、こっちが仙台さんの浴衣だったの?」


私は、選ばなかった白っぽい淡い色の浴衣を見る。

それは藤色の浴衣と同じように綺麗な花が咲いているけれど、同じじゃない。違う花が咲いている。


「こっちも宮城に似合うと思って買ってきた」


当然のように仙台さんが言い、私は彼女を見た。


「……仙台さんが着る浴衣は?」

「宮城が選ばなかったほう。私は宮城と一緒に浴衣が着られるなら、それでいいから。もう着付けの準備出来てるし、服脱いで。着せてあげる」


仙台さんは朝から機嫌が良くて、今も機嫌がいい。


にこにこしていて、今日のお祭りが楽しみで仕方がないことがわかる。そんな彼女のためだから、なんて言うつもりはないけれど、今日のお祭りは誕生日プレゼントの一つだから少しのことなら大目に見てもいい。


でも、“服脱いで”という言葉は聞き逃すことができない。


私は彼女を踏んでいた足で、足首の辺りを蹴る。


「肌襦袢と裾除けっていうの、あるでしょ。それ貸して」


昨日、ネットで調べた。

肌襦袢と裾除けは着物を着るときの肌着で、その下に下着をつけていてもいいと書いてあった。そして、それらは私でも一人で着られる簡単なものだった。


だから、仙台さんに浴衣を着せてもらうにしても、今ここで服を脱ぐ必要はない。すべては肌襦袢と裾除けを着てからだ。


「なんで? 肌襦袢と裾除けも着せてあげる」


仙台さんがにこやかに言う。


「それは自分で着れる。ちゃんと調べたもん」

「……ずるくない?」


不満そうな声が聞こえてきて「ずるくない。あるんでしょ、自分で着るから貸してよ」と返すと、仙台さんが仕方がないという様子で浴衣の下から白いものが入った袋を引っ張り出した。


「これ、肌襦袢と裾除けが一つになってるから」


私は、はい、と渡されたものを受け取る。


「着てくるから待ってて」

「ここで着なよ。私、部屋の外で待ってるから」


そう言って、仙台さんが部屋から出て行こうとして、私は彼女を呼び止めた。


「仙台さん、一つ条件」

「なに?」

「浴衣は着るけど、髪触ったりとかメイクとかなしだから」

「宮城ってけちだよね」


わざとらしいため息とともに文句が返ってくるけれど、髪を触らせてだとか、メイクをさせてだとかはいう言葉は聞こえてこない。仙台さんは「着替えたら声かけて」と言い残して、部屋を出て行く。


私はベッドの上の浴衣を穴が空くほど見る。


はあ、と息を吐いてから、Tシャツとデニムパンツを脱ぐ。


用意された肌襦袢と裾除けが一つになったスリップのようなものを着て、もう一度大きく息を吐く。


体を守るものとしては心許ない。


これから仙台さんを呼ばなければいけないと思うと、憂鬱になるし、逃げ出したくなる。


けれど、ベッドの上には、帯だのタオルだのと必要なものがすべて揃えられていて、脱走なんてことが許されない雰囲気を醸し出している。


「仙台さんのばーか」


小さく呟く。

浴衣なんて着るつもりはなかったけれど、わざわざ買ってこられた上に「宮城のために選んだ」なんて言われたせいで、一晩悩んだにもかかわらずこんなことになってしまった。


それでも、後悔は役に立たないし、なにをしても手遅れだとわかっているから、気が進まないまま部屋の外にいる仙台さんを呼ぶ。


「着替えた」


それほど大きな声は出していないけれど、仙台さんがすぐに入ってくる。そして、浴衣を手に取って「宮城、袖に手を通して」と微笑んだ。


言われた通りにすると、仙台さんが私の前にやってきて、昨日から見ている動画のように浴衣の背縫いの部分が体の中心を通るように整えてくれる。


「仙台さん、浴衣の着付けってほかの人にしたことあるの?」

「ないけど、心配いらないから。昔、着たことあるしね」

「昔って?」

「お姉ちゃんと仲良かった頃」


仙台さんがなんでもないことのように言って、着丈を決めるね、と続ける。

でも、お姉ちゃんという言葉が気になる。


「……自分で着たの?」


彼女が自分から話し始めた過去は、きっと私に聞いてほしい過去で、遠慮なく聞いていい話のはずだ。けれど、それは勢いよく扉を開けて無遠慮に中を覗いていいものではなく、そっと静かに行儀良く扉を開けるべきものだと思う。


「自分で着てみたいって言って、一人で着てみた。そのときは上手く着れなくてお姉ちゃんに手伝ってもらったけど、今日は動画たくさん見たから大丈夫」


平坦というほど感情がない声ではないけれど、気持ちの色を感じるほどの声でもない。


掘り起こした記憶が舞い散り、どこかへ飛ばされても悔やむことがなさそうな目を仙台さんがしていて、私は「動画見ながらやれば」と小さく告げる。


「そのほうが良さそうだし、動画見ながらするね」


そう言うと、仙台さんがスマホを持ってきて着付けの動画を再生する。


着丈を決めて、腰紐を結ぶ。


仙台さんがやけに近くて、心臓がうるさくなる。


腰のところで折り返した余った布――おはしょりを整える。

浴衣の変なところから手が入ってきて、身構える。


体を触ったり、唇をつけてきたり。


仙台さんなら、距離の近さを利用してなにかしてきてもおかしくはないと思ったけれど、彼女はぶつぶつと独り言を言いながらおはしょりを整えている。


「大丈夫?」


そっと尋ねると、「大丈夫。次は胸紐を結ぶから」と返ってくる。すぐに新しい紐が出てきて、胸の下に巻かれて締められる。


仙台さんはときどきスマホを見ているけれど、手際は悪くない。

初めて人に浴衣を着せているとは思えないほどスムーズだ。


でも、私はもう嫌になってきている。


仙台さんが近すぎるし、あっちこっち触られるし、落ち着かない。


息を吸ったり、吐いたり。

仙台さんの足を蹴ったり、髪の毛を引っ張ったり。


つまらないことをして、ふわふわしてそわそわする気持ちを誤魔化していると、帯が結ばれ、「できた」という仙台さんの満足げな声が耳に飛び込んでくる。


「宮城、見て」


語尾に音符がついていそうな声で仙台さんが言い、鏡を見せてくる。そして、私がなにか言う前に「すごく可愛い」と弾んだ声で言った。


可愛くない。


と言いたいところだけれど、その言葉はのみ込んで仙台さんを睨む。


「帯、なんかやだ」

「苦しいの?」

「苦しいわけじゃないけど気になる」

「帯しないわけにもいかないし、我慢して。すぐ慣れると思うし」


仙台さんがにこりと笑い、言葉を続ける。


「宮城は自分の部屋で待ってて。私も今から浴衣着るから」

「いい。ここで見てる」

「見てても面白くないと思うけど」

「面白いかどうかは私が決めるから」


私は仙台さんをじっと見る。

浴衣のまま部屋に戻っても絶対に落ち着かない。


なにかしていたほうが気が紛れる。


その“なにか”はなんでもいいけれど、仙台さんの部屋にいるのだから彼女を見ているのが一番いい。


「あのさ、そんなに見てられると脱ぎにくいんだけど」

「昨日、服脱ごうかって言ってたじゃん」

「それは昨日の話でしょ」

「昨日も今日も同じだから、早く脱いで」

「宮城の変態」


仙台さんがため息交じりに言って、朝から着ている大きめのTシャツを脱ぐ。


淡いブルーの下着が見える。


レースが綺麗なそれは仙台さんによく似合っている。


仙台さんが私を見る。

目が合って、彼女が困ったように視線をそらす。


仙台さんのお腹が膨らんで凹む。

呼吸のリズムが伝わってきて、彼女のそこに触れたくなる。


「エロ魔人って宮城のことだよね」


文句を言うように仙台さんが言って、スカートを脱ぐ。

洋服に隠されていた肌がすべて見えて、私は彼女に近づいた。


手のひらを仙台さんの鎖骨の下に押し当てる。


「……葉月」


囁くように呼んで、指先で四つ葉のクローバーに触れる。


裸に近い艶やかで綺麗な仙台さん。


私以外の誰かもこういう姿の仙台さんを見たことがあるはずだ。


たとえば、体育の着替えで。

たとえば、学校行事のどこかで。


でも、過去になにがあっても仙台さんは私だけのものだ。


鎖骨に唇をつけ、軽く噛む。

脇腹を撫でて、首筋を舐める。

仙台さんの手が私の髪を梳き、柔らかく抱きしめてくる。


「宮城、このまま浴衣着なくてもいい?」


耳もとで声が聞こえて、仙台さんの腕から逃げ出す。


「お祭り、行かないつもり?」

「行くに決まってるじゃん。このままっていうのもいいけどね」


仙台さんがにこりと笑って、着替え始める。


動画を見ながらだから、あっという間というわけにはいかないけれど、それほど時間がかからずに下着だけだった仙台さんが浴衣姿の仙台さんになる。


淡い色の浴衣は、彼女によく似合っている。

私の髪よりも茶色い髪が映える。


花の種類は違うけれど、私の浴衣にも仙台さんの浴衣にも花が咲いているせいで、浴衣が色違いのお揃いのように見えることが気になるけれど。


「どう? ちゃんとなってる?」


仙台さんがその場でくるりと回る。


「なってる」

「じゃあ、行こうか」

「足はどうするの?」

「履くものってこと?」

「そう」

「お揃いの下駄あるから」


そう言うと、仙台さんがふわりと笑った。


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Original