Theme Settings

Color Scheme

Dark Mode
Timeline Characters Contents

「明日から学校だし、予習しなよ」


仙台さんがペン先で教科書を指す。


「……五千円なら、あとから渡す」


口にするつもりがなかった言葉が滑り出る。


五千円は渡すべきではないし、キスだってしない方が良い。もちろん、その先も。そして、仙台さんは断るべきで、たぶん、断る。これから先を考えたら、私たちは何事もなく今日を終わらせなければならない。


わかりきったことを並べて、自分を納得させようとする。けれど、その全部を否定したい私がいる。


「あとからなんて許されると思う?」


そう言うと、仙台さんがテーブルにペンを置いた。


「今がいいなら今渡す」


すんなりと口から出た言葉に従って、体が動く。

でも、立ち上がろうとした私の腕を仙台さんが引っ張った。


「あとからも今からも、もう遅いから」


なんで。


口にしようとした言葉は、柔らかな唇に押し留められた。それは考えていなかったタイミングでのキスで、どくん、と頭の中に心臓の音が響く。


どうして。


疑問が一つ浮かんで消える前に唇が離れる。


「そういう命令してない」


聞こうと思ったことではないことを口にして、仙台さんを見る。


「知ってる」

「わかってるなら、勝手なことしないでよ」

「それ、命令?」

「命令」

「そう。でも、五千円もらってないし、宮城は私に命令できないから」

「だから、渡すって――」

「もう遅いって言ったでしょ」


仙台さんの声で言いかけた言葉が打ち消され、腕を掴まれる。

指が食い込むほど力が入っていて、二の腕が痛い。けれど、痛いと告げる前に仙台さんが言った。


「宮城はもう少し自分のしてること、考えた方がいい」


彼女の言葉にどういう意味があるのか考える時間はなかった。


仙台さんとの間にあった距離が彼女によってゼロにされ、唇が重なる。強く押しつけられ、体が傾く。押し倒されたわけじゃないし、自分から倒れたつもりもないけれど、気がつけば背中が床についていた。


「噛んだりしないでよ」


視線の先、やけに真剣な顔で仙台さんが言う。

その言葉がなにを示しているのかは、顔が近づいてきてすぐにわかった。


首に、頬に、長い髪が触れてくすぐったい。


手を伸ばして、視界を邪魔する髪を仙台さんの耳にかける。目を閉じる前に唇が重なって、すぐに唇とは違う柔らかさを持ったものが触れてきた。確かめるまでもなくそれは彼女の舌先で、唇を割って口内に入り込んでくる。


遠慮という言葉を知らないらしい舌が口の中で動く。


適度な硬さを持ったそれが私の舌に触れ、ぬるりとした感覚が拡大されたように脳に伝わってくる。仙台さんの体の一部が自分の中にあると明確に感じられて、気持ちが悪いわけではないが気持ちが良いとも思えない。


今までなら、躊躇うことなく動き回る舌に歯を立てていた。けれど、仙台さんの言葉がストッパーになっていて、歯を立てることができない。


息苦しくなって仙台さんの服を掴むと、唇が離れた。


「こういうの、駄目だと思う」


彼女を遠ざけるように肩を押して、小さな声で告げる。


「私もそう思う」


仙台さんは、受け入れておいてと文句は言わなかった。かわりに、また顔を近づけてくる。言葉とはまったく違う行動に、私はさっきよりも大きな声を出す。


「仙台さんっ」

「こういうときは葉月って呼びなよ。志緒理」

「呼ばないし、呼ばないで」

「ほんと宮城ってケチだよね」


仙台さんがため息交じりに言う。そして、当たり前のように顔を近づけてきた。


「……続けるの?」


駄目だというかわりに、曖昧な言葉を彼女に投げかける。


「宮城があんなことしようとするから」

「あんなことって?」


それがなにかわかっていて尋ねる。


「さっきキスしようとしたじゃん」


仙台さんの指先が私の唇を撫でる。


私たちの間には、足を踏み入れてはいけない領域があった。それははっきりとしたものだったけれど、夏休みになって酷く不明瞭なものにかわり、今はその領域に足を踏み入れようとしている。


きっかけは、きっと、やり過ぎたと思うくらい仙台さんに触れたあの日だ。


「宮城」


普段なら笑ってしまいそうなくらい真面目な声が私を呼ぶ。


はっきりとそういうことをしようと言われたわけじゃない。

でも、これからそういうことをするのだとわかった。


仙台さんの顔が近づいてきて、もう一度深くキスをされる。


視線が交わるようにお互いの舌が交わって、重なる。仙台さんの輪郭を今まで以上に感じるキスは、さっきよりも気持ちが良いと思える。


十秒なのか、二十秒なのか。

それとも一分なのか。


よくわからないまま唇が離れて、私からもキスを返す。

五千円が介在しないキスへの疑問はない。

おかしいはずなのに驚くほど自然で、唇を重ねることが当たり前のことのような気がしてくる。


顔を離すと、仙台さんの呼吸が乱れていた。

私の呼吸も不規則になっていた。

整えようとしても上手くいかない。きっと、仙台さんも同じなんだと思う。


「背中、痛い」


浅くなった呼吸を誤魔化すように言う。


「それくらい我慢しなよ」


酷いとは思うけれど、たぶん、仙台さんの言うことは正しい。


ベッドへ行って、なんてことをしていたら気が変わるかもしれない。それくらい私たちは、こういうこととは縁遠い関係だ。


引き返すなら、今なんだと思う。

仙台さんの肩を押して、体を起こして、教科書を見ればなかったことになる。


夏休み最後の日。

八月三十一日なんてずっと記憶に残りそうな日に、こんなことをするのは良くない。

まるで記念日みたいに頭に残り続ける。


それはわかっている。

でも、いくつかの偶然が重なって、そこに私の気まぐれが乗って始まった関係なのだから、偶然と気まぐれでこういうことをしたっていいと思う。――きっと、たぶん、いいはずだ。


仙台さんの唇が首筋に触れる。

押しつけられて、軽く歯を立てられる。

彼女の唇が同じ場所に触れたことがあるのに、感覚が違う。


ぞくりとして背筋が伸びる。

舌先が触れて、そこだけに意識が集中する。首筋に感じる湿り気に、気持ちが落ち着かない。唇が首筋を這うように動いて、鎖骨へと向かう。ときどき確かめるように歯が立てられ、強く吸われる。


仙台さんの吐き出す息と何度も落とされるキスに、今まで出したことのないような声が漏れて、慌てて唇を噛んだ。


一瞬、仙台さんの動きが止まる。

顔を上げた彼女と目が合う。


なにか言われると思ったけれど、仙台さんはなにも言わなかった。黙ったまま、Tシャツを捲ってくる。


脇腹に、仙台さんの熱を直接感じる。

葉月と名前で呼ぶつもりはないけれど、そろそろと上へ向かって行くいく手を止めようとは思わない。


雰囲気ってあるんだな。


仙台さんとキスをしながらぼんやりと思う。


いつもよりも硬い声だとか。

呼吸の仕方だとか。

命令とは違うキスだとか。


些細な違いが積み重なって、今していることが特別なことだと気づかされる。


Tシャツの中に入り込んだ手は、そうすることが当然のように体に馴染んでいる。理性を溶かす手に身を任せることに躊躇いはなくなっていて、同じようにブラウスの中に手を忍び込ませて仙台さんの背中に直接触る。


「宮城、くすぐったい」


仙台さんが珍しく余裕がなさそうな顔で私を見る。


「私だってくすぐったい」


私たちはこのくすぐったさの先に、ぞわぞわとする気持ちの悪さの先に、気持ちの良いことがあると知っている。


私は、背骨にそって指を走らせる。背中の半分くらいまで撫で上げると、仙台さんから掠れた声が小さく聞こえてきて心臓が跳ねる。


「それ、くすぐったいから」


取り繕うように言って、仙台さんが私の胸の上に手を置く。


下着はまだ外していない。

それなのに、まるで直接触られたみたいな気がして顔が熱くなる。


小さいとか大きいとか。

そんなことは今まで気にしたことがなかったけれど、仙台さんがどう思うかなんてことも少し気になる。でも、彼女の顔を見ても、頬が少し赤いくらいでどう思ったかはわからない。


するすると手が背中へ潜り込もうとする。

肩を少し上げると仙台さんの手が背中に回りかけて、でも、その手がホックにかかる前にインターホンが鳴った。


突然のことに、息と動きが止まる。

少し間があって、もう一度インターホンが鳴る。


「気になる?」


仙台さんが尋ねてくる。


「別に。どうせ、勧誘かなんかだし」

「私はどっちでもいいよ」


言葉の意味はすぐにわかった。

このまま続けるか、インターホンの呼び出しに応えるかを選べということだ。


いつもならそう何度も鳴らされないインターホンは、しつこく鳴り続けている。


仙台さんは私がすぐに逃げるというけれど、仙台さんだって選ぶことから逃げている。いつだって私に選択を押しつける。


考えるまでもない。

立ち上がって、インターホンの呼び出しに応えたらそれで終わりだ。チャイムを鳴らす相手と喋ってから、じゃあ続きからと言うわけにはいかないだろう。


「宮城」


静かな声が聞こえて、私は彼女の肩を押した。


「仙台さんの意気地なし」


そう言う私も仙台さんと変わらない。意気地なんてあるわけがなくて、チャイムに呼び出された理性に従って体を起こす。


壁にべたりと張り付いた受話器を取って、鳴り続けるチャイムを黙らせる。エントランスの向こうにいる相手の声が聞こえてきて話を聞いてみると、やっぱりくだらない勧誘ですぐに受話器を置く。


息を吸って、吐いて。

小さく深呼吸をしてから振り向くと、仙台さんはベッドを背もたれにして漫画を読んでいた。


「勧誘だった」

「そっか」


素っ気ない声だけが返される。

こっちを見ない彼女に、顔が見たいと思う。


「仙台さん」

「なに?」


返事はするけれど、視線は下を向いたままだ。


「なんでもない」


顔を見せてくれない仙台さんに、もう少し触れたかったし、触れられたかったなんてことを思って、私はそんなことがもうなさそうな午後にほんの少し後悔をした。


Translation Sources

Original