Chapter 372
桔梗ちゃんはいつもいい子だ。
真面目に勉強するし、聞きわけがいい。
おかげで今日も家庭教師のバイトは無事に終わった。
文化祭が近いなんて話をしだして、先生に来てほしいと遠慮がちに付け加えてきたけれど、彼女はそういうときもいい子で聞きわけがよく、私の「用事があるから」という言葉に「言ってみただけです」なんて言って引き下がった。
彼女はとても良い生徒で、だからこそ少し心が痛む。
それでも文化祭には行けない。
彼女の心の中を覗いたわけではないが、深入りしないほうがいい。
家庭教師と生徒。
私と桔梗ちゃんはそれだけの関係なのだから、私は文化祭に行く必要がないし、私の時間の使い道は決まっている。
私は宮城だけしかいらない。
どうしても文化祭に行かなければならないのなら、私は過去の文化祭に行きたい。
高校時代、宮城の教室へ行くことができなかった過去の文化祭に。
「まあ、でも……」
家へ急ごうとする足を止めて、夜空を見上げる。
高校生に戻っても、また同じことをしそうだと思う。
羽美奈たちと行動をともにして、文化祭が終わってから宮城を呼び出すに違いない。
私は街灯に照らされた歩道を見る。
ミケちゃんはいない。
右を見ても左を見てもいない。
この時間はミケちゃんの時間ではないから当たり前ではあるけれど、帰り道にミケちゃんを探すことが癖になっている。これは高校時代にはなかった癖だ。
一歩足を前へ出す。
ゆっくりと進む。
一歩、また一歩と進んで、空を見る。
星は遠く、過去の光に近づくことはできないけれど、宮城が待つ家には近づいている。速度が遅くても、確実に近づいている。
高校二年生のときに宮城に出会って、大学二年生になって、二十歳になって、私たちは変わっていないようで変わった。
自分を取り繕う必要のない場所だった宮城の隣は、ときどき格好をつけたくなったり、情けない姿を晒して後悔したりする場所にもなっている。それは彼女への気持ちが過去とは変わったからで、けれど、変わった気持ちは心の中に閉じ込めたままだ。
もっと速く先へ進めたらと思うけれど、速度を変えることができない。それでも二人でホールケーキを食べて、お酒を飲む仲にはなった。酔って不注意で不用意で迂闊な私になっても、宮城はそんな私を許してくれるし、朝ご飯を一緒に食べてくれる。
焦れったいけれど、悪くない。
前へ進んではいる。
私は宮城が待つ家への階段を上り、玄関の前へ立つ。
鞄からキーケースを出し、宮城と刻印以外はお揃いのそれをじっと見る。
指先でキーケースの猫を撫でて、そっと唇をつける。
大学を卒業するまで使うことが決まっている大事な、大事な鍵を守るもの。
できればずっと使い続けたいそれに守られた鍵で玄関を開け、宮城がいる家に入る。
「ただいま」
小さく声に出して、靴を脱ぐ。共用スペースへ行くと宮城がいて私はまた「ただいま」と言う。
「おかえり」
三毛猫のマグカップでなにかを飲んでいた宮城がそう言うと、私を見た。
「仙台さん、ご飯は?」
「バイト行く前に食べた。宮城は?」
「食べた」
「そっか」
家庭教師のバイトの日は夕飯を一緒に食べることがほとんどないから、このやり取りに深い意味はない。
でも、私が家に帰ってきたときに自分の部屋にいることもある宮城が、共用スペースにいることにはなにか意味があることが多い。
「仙台さん」
宮城が足をぱたぱたさせながら私を見る。
「なに?」
「冷蔵庫にプリンある」
小さな声が聞こえてきて、彼女が共用スペースにいた理由を理解する。
「一緒に食べよっか。ちょっと待ってて」
朝、冷蔵庫の中にプリンはなかった。それが今あるということは宮城が買ってきたということで、きっと彼女は私と一緒に食べるために買ってきた。
私は部屋に鞄を置いて、すぐに共用スペースへ戻る。
冷蔵庫を開けると、コンビニのプリンが入っている。二つ取り出し、一つをスプーンと一緒に宮城の前へ置いてから椅子に座る。
「いただきます」
なんとなく声が揃って、二人でプリンの蓋を開ける。
スプーンですくって食べると、固めのプリンは卵の味が強くて、でも、美味しい。宮城を見ると、彼女は三毛猫のマグカップに入っている液体を飲んでから、プリンを一口食べた。
「仙台さん、今日のあれなに?」
向かい側から低い声が聞こえてくる。
「あれって?」
「澪さんに変な嘘言ったことに決まってるじゃん」
変な嘘というのは、澪とお酒の話をしたときに“宮城は弱い”と言ったことに違いない。あのあと私は、宮城に『澪に宮城はお酒に弱いって言ったから』とメッセージを送ったから、そのことを言っているのだと思う。
「勝手に嘘を言ったのは悪かったと思ってるけど、お酒に強いって言ったら、澪に飲み会誘われるけどいいの?」
私の言葉に宮城が眉根を寄せる。
「それは……」
「嘘は良くないけどさ、宮城、飲み会とか苦手でしょ」
「そうだけど」
「だったら、弱いってことにしといたほうがいいと思う。どうしても嘘が嫌なら訂正しとくけど、どうする?」
「……しなくていい」
ぼそりと言って、宮城が「仙台さんは飲み会に行くの?」と小さな声で付け加える。
「行かない」
「澪さんに誘われても?」
「宮城は行ってほしいの?」
質問に質問を返すと、宮城の眉間の皺が深くなった。
「私、お酒禁止って言った。覚えてるよね?」
「覚えてる。だから、外では飲まない」
「家でも飲まなくていいから」
「少しくらいならいいんじゃない?」
「少しでも駄目」
「なんで?」
「仙台さんはお酒飲んじゃいけない人だから」
宮城がきっぱりと言って、プリンを一口食べる。
私もプリンを一口食べて、気になっていたことを言葉にする。
「宮城。冷蔵庫に入ってたお酒、本当に全部飲んだの?」
「嘘つく理由ない」
「お酒の味、好きじゃないんでしょ?」
「好きじゃなくても飲めるから」
向かい側から、不機嫌な声が聞こえてくる。
確かに人は嫌いなものでも食べようと思えば食べられるし、飲もうと思えば飲むことができる。苦手なものも同じだ。私は炭酸が苦手だけれど、飲むことはできる。
「……ホールケーキと同じだから」
プリンを見ながら宮城が言う。
小さな声は油断していると聞き逃しそうで、私は耳を澄ませて聞き返す。
「残すのは駄目ってこと?」
「誕生日の次の日も冷蔵庫にあるのやだ」
「だからって――」
無理に飲まなくても、と言うはずが、宮城に言葉を奪われる。
「仙台さん。あれ、誕生日だから買ってきたんだよね?」
「そうだけど」
「そういうの捨てたくない」
平坦な声で宮城が言って、カラメルと一緒にプリンを食べる。そして、「美味しい」と言ってもう一口食べると、大げさに「そうだ」と言葉を続けた。
「仙台さん、澪さんってほんとに誕生日会するつもりなの?」
「らしいね。都合のいい日教えてって言ってた」
澪というのはせわしないところがある人間で、授業が終わると善は急げとばかりに“変な鳥”のメンバーに「誕生日会を来月開催する」とメッセージで宣言していた。
「仙台さん、昨日のこと全部覚えてるんだよね?」
「覚えてるけど、なに?」
「昨日、仙台さんの相手するの大変だった」
「みたいだね」
記憶にある昨日の私はまさしく酔っ払いで、宮城に絡んでいた。ああいう私の相手は大変だったろうと想像できる。おかげで、お酒は飲み過ぎてはいけないと心に刻むことができた。
「だから、いうこと一つきいてよ」
静かに宮城が言って、私を見る。
命令という言葉は含まれていないが、今の言葉は命令と同等のものだとわかる。そして、断る権利がないこともわかる。
「それ、一つでいいの?」
「一つでいい」
そう言うと、宮城がプリンを食べていたスプーンを置いた。