Chapter 377
仙台さんが本当はどうしたかったのか。
聞くこともなく送り出してしまったから、私には彼女の気持ちがわからない。行きたくなかったのに無理矢理行かせてしまったのかもしれないし、私がなにも言わなくても行ったのかもしれない。
私はなにもわからないまま、仙台さんを待っている。
映画を観ていたときと同じ床の上、手のひらの上のキーケースを見る。
猫が刻印されたキーケースの中にあるのはこの家に入るための仙台さんの鍵で、彼女が持っていった私の鍵と同じものだ。
キーケースをもらうまではあまり意識していなかったけれど、鍵は共通のもので、私たちを同じ場所につなぎ止めている。それは、この鍵がなくなったら同じ場所にいることができなくなるということだ。
私は、ぎゅっとキーケースを握りしめる。
仙台さんが帰ってくるのはこの家しかないはずで、帰ってこなかったことはなかった。もちろん鍵をなくしたこともないし、キーケースが鍵を守っている限りこれから先もなくすなんてことはない。
ベッドに寄り掛かり、テーブルの上を見る。
仙台さんと映画を観ていたタブレットが視界に入って、突然ゾンビの声が聞こえてくるなんてことがないように電源を切る。ついでに画面を下に向け、テーブルの上に置く。さらに、本棚から黒猫のぬいぐるみを持って来て、その上に置いてすべてを封印する。
ゾンビはタブレットの中に閉じ込めておかなければならない。
「頼んだからね」
猫は「にゃあ」と鳴いたりしないけれど、首にかけてある月のネックレスがキラリと光る。
――ホラー映画なんて観なきゃよかった。
仙台さんが朝まで隣にいると思っていたから油断した。
今までだったら想定外の事態を考えて、ホラー映画なんて絶対に観なかったはずだ。恐怖は精神をじわじわと蝕み、ありもしない幻影を見せる。
観た直後、その夜、そして翌日。
時間が経ってもふとした瞬間に画面の中だけにしか存在しないはずのなにかの気配を感じたり、影を見たりする。忘れた頃にそんなことがあるから、恐怖の残骸が私の中でくすぶり続け、明るい場所でも怖じ気づく。
仙台さんが家を出てから一時間も経っていないのに、私はいるはずのないなにかを背後に感じている。
嫌だ。
仙台さんが座っていた場所に置いたスマホに目をやる。
メッセージも電話も来ない。
背中を丸めて、キーケースを持ったまま膝を抱える。
どうしてこんなときに仙台さんのお姉さんは風邪を引いたりするんだろう。
「怖いじゃん」
ぼそりと言って、黒猫を見つめる。
仙台さんは家族の話をほとんどしないから、私は彼女のお姉さんのことを知らない。
風邪を引いたら寝込んでしまう仙台さんとよく似ているのか。
知っていれば、お姉さんがどれくらい具合が悪いか想像できて、仙台さんがいつ頃帰って来るのか予想できそうな気がする。
今はなにもわからない。
お姉さんが暮らしている場所さえも。
仙台さんはなるべく早く帰ってくるとは言っていたけれど、帰って来る時間は言わなかった。夜中まで帰ってこないなんてことはないと思いたいが、仙台さんのように調子が悪くなるなら、朝まで帰ってこないかもしれない。
ふう、と息を吐く。
仙台さんのことを知りたいと思っていたのに、なにも聞いていない自分に落胆する。今日までに時間がたくさんあったのだから、お姉さんの話を聞いておけば良かった。
でも、そう思うだけだ。自分のことを考えると、簡単には聞けない。人に話を聞くときには、自分も同じことを聞かれる覚悟がいる。
私にはその覚悟がない。
きっと私は、母親がどんな人だったのか聞かれたら答えられない。それは、埋もれている記憶をそっとしておきたいからだ。
お母さんはお父さんの話をたくさんしてくれて、いつも優しかった。お父さんがいないたくさんの夜、いつだって側にいてくれた。
こういう話を誰かにするということは、お母さんのことを思い出すということで、思い出さなくてもいいことまで思い出すということだ。
本当にお母さんが優しかったら、家に帰ってこないなんてことはない。誰もいない広い家で泣いている小学生の私の頭を撫でに来ないなんてこともない。
そういう認めたくない事実を認め直す作業をすることになる。
つまらない話はしなくていい。
手の中のキーケースを強く握る。
お母さんはよく泣いていたけれど、そのお母さんよりもっと泣いていた私のことなんか思い出したくない。
思い出すなら、もっと違うことがいい。
朝から冬休みの話をしようとしていた仙台さん。
スマホで調べてまで日帰り旅行の予定を立てようとしていた仙台さん。
私の隣でホラー映画を観ていた仙台さん。
タブレットの中ではゾンビが暴れていて――。
少し前に観ていた映像が蘇って怖くなる。
スマホの時計を見る。
もう夕飯を食べてもいい時間で、ため息が出る。
この部屋には食べるものがない。
夕飯を食べようと思ったら共用スペースへ行く必要がある。
私は少し考えてから、立ち上がる。
本棚から笑える漫画を数冊持って来て、スマホの隣に置く。
この家にお化けはいないし、ゾンビが出たりもしないけれど、それほどお腹が空いていないから夕飯は食べないことにして漫画を読む。
一冊、二冊、三冊。
読み進めていくけれど、笑えない。
本棚から新たに本を持って来て、四冊、五冊と読む。
小説も読んでみるけれど、頭に入っていかない。
時間はゆっくりと過ぎていき、スマホが鳴る。
『ごめん。遅くなる』
届いたのは仙台さんからの短いメッセージで、私は『わかった』と返事を送る。
でも、もう月と星の時間で、窓の外は真っ暗だ。
真夜中と呼ばれる時間が近づいている。
仙台さんと暮らすまではずっと一人だった。
怖い夜のやり過ごし方はよく知っている。
今日は黒猫がタブレットを封印しているし、仙台さんのキーケースがある。
だから、大丈夫であるべきなのに、私の背中は丸まったままで真っ直ぐに伸びない。
こういうときは、布団に潜り込んで朝まで眠ってしまうのが一番いいのだけれど、今日は布団に潜む闇まで怖い。
私はベッドからタオルケットを取って、床の上でくるまる。
いつもだったら、背中になにかあると安心できるし、柔らかいものに包まれていると気持ちが少し落ち着くけれど、今日はそうはならない。
タオルケットにくるまったまま立ち上がり、ドアを開ける。
共用スペースの電気を付けて、仙台さんの部屋の前に立つ。
ドアにぺたりと手をつける。
この中に入りたい。
自分の部屋にいるよりも怖くなさそうだと思う。
でも、人の部屋には勝手に入っちゃいけない。
黒猫がベッドで眠っていることを知られたくない私のように、仙台さんにだって隠しておきたいものがあるかもしれない。
開けっぱなしの自分の部屋を見る。
今、黒猫はタブレットの上にいる。
ワニは私が座っていたところの近くにいる。
キーケースとスマホは私が持っている。
泣いている私はどこにもいない。
置いていかれたわけじゃない。
怖くても待っていれば、仙台さんは帰ってくる。
自分の部屋のドアを閉め、仙台さんの部屋の前に座る。
仙台さんは交換したキーケースを私に返さなきゃいけないのだから、帰ってこないなんて絶対にない。
私の心の奥には仙台さんを信じられない私が住んでいるけれど、彼女を信じる私もいる。仙台さんを信じられない私と仙台さんを信じる私がぶつかり合って喧嘩しているだけだ。
今は、仙台さんを信じる私が勝っている。
できれば、これから、長く。
この気持ちとともに暮らしたい。
――だから、早く帰ってきてよ。
お願いだから。