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Chapter 378

「じゃあ、私、行くから」


半分眠っているお姉ちゃんに声をかけて、考えていた以上の時間を過ごしてしまった家を出る。


終電を逃したくない。

早足で駅へ向かう。


なにかあったら連絡して。


一人暮らしをしている姉にそんな言葉を付け加えるべきだろうと思ったけれど、言えなかった。


来た時とは違う闇が落ちる歩道、足を止めて振り返る。


私が大学生になってからお姉ちゃんから連絡があったけれど、私は宮城よりも素っ気ない言葉しか返せなかった。


そして。

今日もお姉ちゃんとはほとんど話をしなかった。


だから、お姉ちゃんがなにを考え、どう生きてきて、今日どんな思いで私を部屋に入れたのかわからない。


お姉ちゃんの家へと続く道を見る。

視線の先は街灯に照らされているのにやけに暗い。

建物も歩道も私に馴染まない。


鞄の中のキーケースを見る。

そこに猫はいないけれど、宮城のものである犬が小さく吠えた気がして前を向く。


できなかったことを考えても今さらどうにもならない。


電車に乗るために足を動かす。

姉の家から遠ざかり、宮城が待つ家が近づく。


歩くというよりは走る速度で、宮城のもとへ向かう。


息が切れ、駅に着いて呼吸を整える。

改札を通って、終電に滑り込む。


人が少ない。

座りたくなくて立ったまま、電車に揺られる。


具合が悪そうなお姉ちゃんの顔が頭に浮かんで、スカートを掴む。


本棚が目立つ部屋で、友だちに連絡した様子もなく座り込んでいたお姉ちゃん。

誰もいない部屋で一人。

ベッドで眠らず、ただ座っていた。


それは具合が悪いことをなかったことにしようとしていた宮城と重なり、薬と食べ物を置いてすぐに帰るという選択肢を私から奪った。しかも、熱を測らせたら体温計に三十九度なんて表示されてしまったから、余計に帰りにくくなってしまった。


こういうときは友だちを頼ればいいのに。


そんなことを考えてしまったけれど、私だったら具合が悪いからといって友だちを頼ったりしない。私が知っているお姉ちゃんも同じ選択をする人だった。


もう別の人間になってしまったと思っていたが、変わらない部分もあったらしい。


ほかにも変わらない部分があるのだろうけれど、今はそれを知りたいとは思えない。私とお姉ちゃんは今日久しぶりに顔を合わせた。今はただそれだけの関係だ。


親がかけた呪いが一瞬で解ける魔法なんて、ない。


カボチャは馬車になったりしないし、ネズミは馬になったりしないと私は知っている。


でも、魔法なんてなくても人が変わることも知っている。二時間や三時間で変わらないものでも、二年、三年と時間をかけることで変わることがある。昔の私とお姉ちゃんに戻ることはできないけれど、新しい私たちにはなれるのかもしれない。


問題はそれには努力が必要だということで、大きくなってしまった私はその努力をしようとは思えずにいる。悪いのはお姉ちゃんではないとわかってはいるが、理解と感情は相容れない。


――お姉ちゃん、か。


子どもの頃は私とお姉ちゃんに大きな差はなかった。


お姉ちゃんができたことは私もできるようになった。


だから、お姉ちゃんの後を追いかけることができた。


私たちは太陽と月のような正反対の姉妹というわけではなく、どちらかと言えば星と月のようなよく似た存在だった。


でも、似ているだけで同等というわけではなかった。姉ができることは私もできると勘違いしていただけだ。年を重ねるごとに私にはできないことが増えていき、星と月は違うのだとわかった。


失望と失意。

後悔と悔恨。


生まれてくる感情は良くないものばかりで、ため息が出る。


行かなきゃ良かった。


なんて、思いはしないけれど、前向きな気持ちにはならない。


電車に揺られていると、宮城と映画を観ていたかっただとか、くだらない話をしたかっただとか、そんな想いばかりが膨らむ。必要な物以外がない部屋で苦しそうにしているお姉ちゃんを見ているときも、宮城のことが気になって仕方がなかった。


薄情で冷淡な私。


病人を心配する心に欠ける自分に吐き気がする。


ぼんやりとドアを見る。

開いて、閉まって。

何度も繰り返され、短いとは言えない時間乗った電車を降りる。


駅の外へ出て、私が帰るべき家へと街灯に照らされた歩道を歩く。


街は真夜中らしく、音を際立たせる。

足音がいつも以上に響いて闇に溶ける。


頭の上には、私の名前の一部で宮城が持っていった月が輝いている。明るければ、歩道のどこかに自分の一部である葉っぱを見つけることもできるだろうけれど、今の私は月も葉っぱも見ることができない。私は前だけを向いて、足を進める。


家へ向かって。

速く、速く。

宮城のもとへ。


胸元で四つ葉のクローバーが揺れる。


今日はなんだか家が遠い。

一分が二分に、二分が四分に感じる。


時が止まったような真夜中の時間を切り裂き、規則正しく足を動かし、腕を動かす。


家に辿り着き、階段を上って三階。

ドアの前で宮城のキーケースを出す。


「着いたよ」


行儀良くずっとそこにいる犬に話しかけて、鍵を開ける。


「ただいま」


鍵を閉め、靴を脱ぐ。

共用スペースへ向かい、ドアを開ける。


明るい。

電気が点いている。

でも、宮城はいない。


彼女は電気をつけっぱなしにしたりしないはずだが、椅子には誰も座っていないし、キッチンに誰かが立っているということもない。

一歩、二歩と、足を進めてすぐ止める。


「……え?」


床の上に塊が一つ。

タオルケットに包まれたそれは――。

どう考えても宮城で。

たぶん、きっと、倒れている。


「宮城っ!?」


何故、共用スペースで宮城が倒れているのかわからない。


しかも、その場所がどうして私の部屋の前なのかわからない。


なにもかもわからないが、駆け寄る。


「宮城っ」


鞄を投げ捨てて、タオルケットを剥ぎ取る。


目が閉じたままで、開かない。


体を揺らしかけて、手を止める。

倒れている理由がわからないから、下手に動かさないほうがいいかもしれない。


「宮城っ、宮城っ」


頬を軽く叩くと、「ううっ」と小さなうめき声が聞こえて心臓が跳ねる。意識があって嬉しくて、でも、意識がしっかりしていなくて心臓が早鐘を打つ。


「宮城、大丈夫? 私のことわかる?」


真夜中には出すべきではない音量で問いかけると、宮城のまぶたがぴくりと動いた。


「……せんだ、い、さん?」


掠れた声とともに目が開き、焦点がゆっくりと私に合う。


「大丈夫? 頭ぶつけてない? 痛いところがあったら教えて」


聞きたいことが頭の中で渋滞して、言葉が上手く並ばない。

けれど、黙ってなんていられなくて浮かんだ言葉をそのまま口に出していく。


「からだ、いたい」


宮城がぼそりと言って、私は彼女の肩を掴む。


「体のどこ? 救急車呼ぶ?」

「きゅうきゅうしゃ?」

「そう。具合悪いんでしょ?」


そうじゃなきゃ、こんなところに倒れてなんかいない。


いつから調子が悪いのかわからないけれど、もしかしたら、私が家を出るときにはすでにどこか痛いところがあって、だから、こうなっているのかもしれないなんて考えてしまって、心臓がうるさいくらいに鳴る。


私は肩を掴んだ手に力を入れる。

痛い、と声が聞こえて、「どこが?」と尋ねる。


「かた。手、はなして」


ぱちんと肩を掴んでいた手を叩かれて、私は慌てて手を離す。


「寝てただけだから」


水分がなくなった食パンみたいにぼそぼそとした声が聞こえてくる。


「寝てただけって、ここで寝てたの? 本当は倒れてたんじゃないの?」

「ほんとに寝てただけだから大丈夫」


そう言って、宮城が体を起こす。


視線が合う。


宮城の手が私に向かいかける。

でも、その手は、慌てたように私が剥がしたタオルケットの中に隠れた。なんとなく気になって、腕を掴む。軽く引っ張ると、手がタオルケットの中から出てきてキーケースが落ちる。


「おかえり」


私が口を開く前に宮城の不機嫌な声が聞こえて、彼女に伝えていなかった大切な言葉を伝える。


「ただいま、宮城。遅くなってごめん」


柔らかく。

私は、宮城の耳を飾るプルメリアのピアスに触れた。


Translation Sources

Original