Chapter 380
『昨日はありがとう。熱は下がった』
眠っていた私を叩き起こしたスマホに表示されたメッセージを見て、一気に目が覚める。
――お姉ちゃん。
見なかったことにしたいと思う。
けれど、歩み寄ってきた姉を無視するのは酷い。
相手は病み上がりの人間だ。
朝から見たいものではなくても、良いとは言えない状態の仲であっても、返事の一つくらい送ったほうがいい。
『そう』
迷った末に、短くてたいした意味がない言葉を送信する。
はあ、と息を吐く。
もっと良い返事があったはず。
そんなことを思ってしまったせいか、たった二文字の言葉を送っただけなのにやけに疲れた。
私はスマホを壁際に置いて隣を見る。
「……志緒理」
目に映ったものを口にして、手を伸ばす。
黒い髪を撫でて、軽く引っ張る。
私のベッドの上には宮城がいる。
それは、昨日、私たちがレトルトのミートソースをかけたパスタを遅すぎる夕飯にしたあと、“朝まで起きている”という約束を守ることなく眠ったからだ。
もちろん、宮城は「朝まで起きてるって言ったじゃん」と文句を言っていたけれど、私は疲れ果てていたし、宮城もなんだかんだ言いながらも布団に入るとすぐに眠ってしまって、朝と言うには遅い時間になった今もまだ眠っている。
「志緒理」
指先で彼女の唇をなぞる。
起きていれば文句を言ってくるであろう呼び方だけれど、宮城が眠っている今は心置きなく何度も呼べる。
志緒理、志緒理、志緒理。
繰り返し何度も呼ぶ。
宮城は起きない。
文句のない穏やかな時間が緩やかに過ぎていく。
こういう静かな時間も悪くはないが、やっぱり宮城は起きているほうがいい。眉根を寄せていても、声が低くても、開いた目に私を映して、名前を呼んでほしい。
「志緒理」
大きな声で呼んで、唇にキスをする。
それでも起きないから宮城をぎゅっと抱きしめると、「ん、なに?」と寝ぼけた声が聞こえてくる。
「志緒理、おはよ」
「おは、よ」
腕の中から小さな声が聞こえる。
「眠いの?」
「うん」
ぼんやりした声が返ってきて、「もうすぐ十時だけど、志緒理はまだ寝る?」と尋ねると、宮城が密着していた私の体を押し離した。
「起きる。あと、志緒理じゃなくて宮城」
「はいはい」
宮城の手を捕まえて、指先にキスをする。
「そういうことしていいって言ってない」
「そうだね」
にこやかに返して、手のひらに唇を押しつける。
「仙台さんっ」
低い声とともに額を押され、唇が彼女から離れる。
「なに? 宮城」
「鬱陶しい」
はっきりとした声で言われ、私は声の主を見る。
「酷くない?」
「酷くない。そんなことより、お姉さんから連絡あった?」
間違いなく覚醒してしまった宮城が静かに言う。
「……あったけど」
朝から楽しいとは言えない話題に口が重くなる。
「元気になったの?」
「らしいね」
「良かったね」
宮城から柔らかな声が返ってきて、おでこにコツンと当たり、私の中にじんわり染みこむ。
「そっか。そうだね」
良かった。
熱が下がって、良かった。
――そういうことか。
きっと、それが姉に返すべき言葉で、『そう』よりももっと良い言葉だ。親によって作られた姉への感情がこんな当たり前の言葉も見えなくしていた。
でも、時間によって凝り固まった姉との関係は簡単に崩せそうになく、気づいたメッセージを新たに送ろうとは思えない。
ただ、今日は無理でもいつかは良い言葉を返せるといいと思う。
「宮城、ありがと」
黒い髪に触れ、柔らかく撫でる。
「なにが?」
「なにがでも」
にこりと笑って「朝ご飯食べよっか」と付け加えると、宮城が「着替えてくる」と言って部屋から出て行く。
ベッドの上にぽっかりとスペースができて、ごろりと転がりぺたりと頬をくっつける。
残った体温が心地いい。
私の居場所はここにある。
ずっとこうしていたいけれど、体を起こす。
顔を洗って、着替えて、朝ご飯を食べて。
いつもと少し違う朝を迎えた日曜日をいつものように過ごす。
黒猫のマグカップと三毛猫のマグカップに紅茶を淹れ、私の部屋で昨日の映画の続きを観る。
一晩経てば宮城がホラー映画を好きになっているなんてことはなく、彼女は隣で小さくなってタブレットを見つめている。
エンドロールが流れて宮城が文句を言い、映画をもう一本観てから、遅めのお昼ご飯を食べる。じゃんけんで後片付けの担当を決め、宮城が食器を洗う。
ゆったりとした時間が流れ、私たちはオレンジジュースが入ったグラスと一緒にまた私の部屋へ行く。
「次はなに観るの?」
タブレットを持った宮城が当然のように聞いてくるが、彼女は忘れてはいけないことを忘れている。
私はオレンジジュースを一口飲んでから、宮城を見る。
「まだ続きになってるものあるけど、どうする?」
「途中になってる映画なにかあったっけ?」
宮城が不思議そうな顔をする。
「――約束。保留になってる話の続きしようよ。昨日のことだし、覚えてるでしょ」
隣に座っている宮城の手を握ると、びくりと震えて視線を私からそらした。
彼女はきっと覚えている。
宮城が昨日「今ならいい」と言って、でも、空腹によって中断されたその約束は、私が「明日ね」と言ったことで保留になっている。
「外、明るいけど」
宮城の言葉通り外は太陽に照らされているが、彼女は窓の外を見ようとしないで床を見つめている。
「暗くなるような時間じゃないしね」
「変態じゃん」
ぼそりと宮城が言って、繋がっていた手をほどいて私の肩を押す。
「しない?」
決定権は宮城が持っている。
私にはない。
「宮城」
無理強いをするつもりはないから、彼女が嫌だと言えば話はここで終わる。保留になった話は、いつかまた宮城が返事をしたいと思ったときに彼女から言えばいい。
「映画、観る?」
私を見ない宮城に問いかけるが、彼女の視線は床に向かったままで私に返ってこない。映画を観ようと手をテーブルの上にあるタブレットに伸ばすと、小さな声が聞こえた。
「……仙台さんが決めれば」
どくん、と心臓が鳴る。
口から出そうになった「え」という言葉を呑み込む。
答えは一つしかない。
「カーテン閉めるね」
宮城はなにも言わない。
私は立ち上がり、カーテンを閉めてこの部屋を外の世界から遮断する。ベッドに腰掛け、電気を消すと宮城が隣にやってきて、私は彼女の頬に触れた。
「……仙台さんがするの?」
小さな声で言われて、「嫌?」と尋ねる。
宮城の手が私の服を掴む。
けれど、彼女は黙っている。
「今日は、誕生日よりももっと宮城を大事にする、って約束守りたい。宮城の頬だけじゃなくて、ほかのところも触っていい?」
唇を寄せ、私の居場所に触れる。
額に、鼻に、唇に。
キスをして、彼女の肩を押す。
ゆっくりと体が倒れ、ベッドに宮城の背中がつく。
「仙台さん、服脱いで」
掴まれたままだった私の服が強く引っ張られる。
「宮城は?」
「……仙台さんが脱ぐ」
「いいよ。でも、宮城も脱いだら? 暗くて見えないしさ」
私は宮城のカットソーをたくし上げて、お腹の上に手をぺたりと置いた。