Chapter 390
水族館と動物園、そして映画館。
その三つじゃない場所。
仙台さんと出かける場所はそういうところから選ばなくちゃいけない。
大学の講義室に入って十分とちょっと。
私は、誕生日に仙台さんからもらったキーケースをじっと見る。
仙台さんみたいなボルゾイが鍵を守っているこれは、見ていると話しかけたくなってくるけれど、彼女がくれた黒猫のぬいぐるみと同じで声をかけても喋ってくれないし、私に出かける場所のヒントをくれたりもしない。
もちろん、大学でキーケースに話しかけるなんて正気を疑われるようなことはしないが、手がかりがほしくて話しかけたくなってくる。
――駄目だ。
無口なボルゾイのキーケースを鞄にしまって、手のひらをぺたりと机にくっつける。
もう少し家でゆっくりしてくれば良かったと思う。
仙台さんがなんだかんだと理由をつけてキスをしてきたり、くっついてきたりするから、急ぐ必要もないのに急いで家を出てしまった。おかげで無駄に時間がある。
舞香はまだ来ていない。
喋る相手がいないせいで、どういうわけか私が決めることになった仙台さんと一緒に出かける場所のことで頭がいっぱいになっている。
どうしてこんなことになったのだろう。
仙台さんと同じ家に住むようになってからまだ二年も経っていないのに、彼女は大きな顔をして私の中に居座っている。ルームシェアをするのは大学を卒業するまでだから折り返し地点にだって来ていないのに、仙台さんが占める割合が大きすぎる。
あまり良いことではないと思う。
思考の大半を奪うようになった人間がいなくなった未来を想像できなくなっている。
でも、まだ来ていない折り返し地点は必ずやってきて、卒業もそう遠くない未来にやってくる。
高校の卒業式の日、私は仙台さんを切り離すことができなかった。
切れるはずの縁は繋がり、今に至っている。
けれど、どんな関係であっても切り取り線がついているみたいにすっぱり切れて、離れていくものがあることを私は知っている。どんなに固く結んで解けないようにしても、人は結び目をハサミで切ってしまうことができる。それどころか、いらないと紐ごと捨ててしまうことだってできる。
気持ちなんていうものは見えない不確かなもので、結び目よりも頼りない。見えないものを信じるに値しないと断じるつもりはないけど、酷く頼りないものだというのは間違いないと思う。
一年半ほど仙台さんと暮らしたことで、彼女が誕生日を一緒に過ごしてくれて、側にいてくれる人間だと知った。
彼女は、私にとっての家を誰もいないものから誰かいるものにして、子どもの頃にほとんど行くことがなかった水族館や動物園に行く日常をくれた。
そう思うと、頭の中が仙台さんだらけになるのは当たり前のことのように思えるし、彼女と出かける場所で悩むのも当たり前のことに思える。
出かけるなら、仙台さんに楽しいと思ってほしいし、喜んでほしい。
そんなことを考えるようになったことは必然で、私の悩みは当然のことなのかもしれない。でも、彼女が楽しんでくれそうで、喜んでくれそうな場所なんて思い浮かばない。
「うーん」
机に突っ伏して、手をぎゅっと握って開く。
髪の毛を引っ張ってもう一度「うーん」と唸ると、舞香の声が聞こえた。
「志緒理、おはよ」
顔を上げ、「おはよ」と返す。
舞香が隣に座って、「昨日、楽しかったね」と微笑む。
「うん。エプロン、ありがと。今日使った」
「あ、使ってくれたんだ。ってことは、朝ご飯は志緒理が作ったの?」
「仙台さんが作った」
「志緒理は?」
「手伝う前にできあがってた」
「それって、エプロン使ったの仙台さんってこと?」
「うん。似合ってたよ。あと、私もつけてみた。今日は料理しなかったからつけただけだけど、これから使うね」
事実を告げると、舞香の顔がぱっと明るくなる。
にこにことわかりやすい笑顔で舞香が「良かった」と言い、言葉を続けた。
「ちょっとほっとした。実は迷ったんだよね。澪さんが使えるものがいいんじゃないって言ってエプロンにしようってなったんだけど、身に着けるものって好みもあるし、大丈夫かなって」
「大丈夫。気に入ったから。ほんとにありがと」
「気に入ってもらえたなら嬉しい」
弾んだ声で舞香が言う。
誕生日会でもらったプレゼントが身に着けるものであったことは、手放しで喜べることじゃなかった。でも、きっと、身に着けるものじゃなかったとしても、私は心の底から喜ぶことができなかった。
食べたらなくなるようなものであっても、使ったらなくなるようなものでも、部屋に置いておくようなものであっても、仙台さんが私以外からもらったものを喜んで大事そうにしているところは見たくない。
だからと言って、舞香を悲しませるようなこともしたくない。
いつもそうだけれど、仙台さんが関わると物事が途端に難しくなる。
なにかをもらったときに、心の底から喜ぶなんてことすらできなくなる。
もらったのが自分だけだったら良かった。
エプロンをもらったことをちゃんと喜ぶことができたし、嘘を混ぜずに話すことができた。でも、現実はそうじゃない。
私は心の片隅でくすぶり続ける罪悪感とともに舞香を見る。
「それにしても舞香、澪さんと仲いいよね。澪さんから誘われて合コン行ったりしてるのは知ってたけど、まさか二人でプレゼント選んでくるとは思わなかった」
舞香と澪さん。
同じ高校だったら交わることなく卒業を迎えそうな組み合わせは、私と仙台さんに“予想外”を連れてくる。
「澪さんってめちゃくちゃ積極的でどんどん連絡くれるから、気がついたら仲良くなってた。――そうだ。澪さん、志緒理に澪って名前で呼んでほしいって言ってたよ」
どうして私がいないところでそんな話をしているのかわからないけれど、やっぱり“予想外”が起こっている。舞香と澪さんを一緒にしておくと、私にとって良くないことが起こり続けるのではないかなんて思ってしまう。
「舞香は呼ばないの?」
私はとりあえず無難な質問を返す。
「なんか、さん付けで固定されちゃってて。どうせなら志緒理と一緒に澪呼びにしようかと思ってるんだけど」
「私もさん付けで固定されてるし」
私を巻き込もうとする舞香に笑顔を返して、あまり良くない流れを変えようとする。けれど、こういうときはどんどん良くない方向へ向かうもので、舞香が思い出してほしくないことを口にした。
「そう言えば、志緒理って仙台さんもさん付け固定だよね。ルームシェアしてから結構時間経ってるのに、葉月って呼ばないの?」
「うーん、まだ呼ばない」
仙台さんの名前は私のもので、今の私は“葉月”と呼ぶことがある。
でも、呼ぶのは私だけのものである“仙台葉月”を確かめるときだけだ。
「まだ、ってことはいつか呼ぶんだ?」
「どうだろ」
ほかの人の前でも呼びたいけれど、呼びたくない。
素直にそんなことを言ったら、舞香の好奇心を刺激するだけだとわかっているから曖昧に笑う。
「名前で呼べばいいのに」
ずきり、と胸が痛む。
舞香は、私が仙台さんを葉月と呼ぶまで仙台さんと呼ぶ。
この話は私が仙台さんから聞き出したもので、舞香は私がこの話を知らないと思っている。
「澪さんの呼び方みたいに、私が仙台さんのこと葉月って呼んだら、舞香も呼ぶの?」
「志緒理が呼んだら呼ぼうかな。なかなか呼びそうにないけど」
そう言うと、舞香がくすくすと笑う。
「さん付けで固定されてるし」
そういうわけではないけれど、そういうことにしておく。
嘘はつきたくないが、ほかに返す言葉が見つからない。
「そうだ、志緒理。今日の夜はなに食べるの?」
「え、カップラーメン」
唐突に話を変えた舞香についていけず、私は言わなくてもいい本当のことを告げる。
「駄目じゃん、エプロン活躍させてよ」
「今日一人だし、作るの面倒くさい」
「今日って仙台さん家庭教師の日だっけ?」
「そう」
できることなら、今日は仙台さんが作ったハンバーグが食べたい。
でも、バイトから帰ってきた仙台さんにハンバーグを作らせるほど私は酷い人間ではないし、ハンバーグは私が作るものじゃないから今日はカップラーメンでいい。
「志緒理のエプロンが活躍するのっていつ?」
「明日は活躍すると思う」
「ふむ、それならよろしい」
舞香が芝居がかった口調で言って、にこりと笑った。
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