Chapter 396
私たちはパンをよく食べる。
朝はトーストを食べることが多い。出かけた先では、フレンチトーストやパンケーキを食べることがある。
でも、迷いのない足取りで仙台さんが案内してくれたフレンチカフェのテーブルに並んでいるのは、今まで食べたことのないパンだ。
ちょっと焦げたチーズで覆われたホットサンド。
パンをめくると、ハムが見える。
「宮城もクロックムッシュで良かったの?」
仙台さんの声が向かい側から聞こえて来て、視線をパンから彼女に移す。
「仙台さんがおすすめって言ったんじゃん」
私は仙台さんが美味しいと言ったから、彼女と同じクロックムッシュを頼んだ。
今さら、「良かったの?」なんて聞かれても困る。
「そうなんだけど、なかなか食べないから」
「食べたことないものだから、見てただけ」
見たことがあっても食べたことがないもの。
それがクロックムッシュだ。
正式名称も今初めて認識した気がするから、まじまじと見てしまう。
「冷める前に食べなよ。美味しいからさ」
チーズは嫌いじゃないし、ハムも嫌いじゃない。
パンももちろん嫌いじゃない。
美味しいと思っているものの集合体だから、味もなんとなく想像できる。
「今から食べる」
短く告げて「いただきます」と言うと、その声が仙台さんと揃う。にこりと笑う仙台さんを見て、クロックムッシュにナイフを入れる。たっぷりのったチーズがとろりととろけて、いい匂いがする。ハムが切れ、ふわっと柔らかなパンも切れる。
切り口からは白いソースがちらりと見える。
一口食べる。
サクサクふわふわで美味しい。
口の中で絡み合うチーズとソースが、パンとハムによく合っている。
フォークとナイフを動かして、クロックムッシュを切り分けては口に運ぶ。テーブルの上にはサラダとオレンジジュースも並んでいて、ときどき食べて飲む。
「宮城、美味しい?」
「美味しい」
短く答えて仙台さんを見ると、彼女のお皿のクロックムッシュはほとんど減っていない。
「食べないの?」
問いかけると“にこにこ”が“にこにこにこ”くらいになり、仙台さんが自分のクロックムッシュを一口分切り分けた。
「宮城。これ食べる?」
フォークにパンを突き刺して尋ねてくる。そして、私が答える前に「口あけて」なんて言ってくるから、「いらない。美味しいから、仙台さん食べて」と返す。
「そっか。残念」
仙台さんがクロックムッシュをぱくりと食べて「美味しい」と言う。私も同じようにクロックムッシュをぱくりと食べる。
本当に美味しい。
でも、家で作るのは大変そうだ。
焼いたパンでハムを挟み、その上にチーズをのせるのはそう難しいことではないと思うけれど、白いソースを作るのは面倒くさそうだと思う。
「宮城、なに考えてるの?」
仙台さんがクロックムッシュを食べる手を止めて、私を見る。
「美味しいなって思ってるだけ」
「今度、作ってあげようか?」
「作れるの?」
「レシピ調べたら作れないこともないと思う」
そう言って、仙台さんがクロックムッシュを一口食べる。そして、「でも、お店で食べたほうが美味しいと思うし、また一緒に食べに来ようよ」と付け加えた。
「……考えておく」
仙台さんが作ったらどんなものでも美味しいはずだと思うけれど、このカフェのクロックムッシュもまた食べたいと思う。
でも、一緒にまたここに来ることがあったら、クロックムッシュを食べるついでに洋服を見ようなんて言われて試着させられそうな気がする。
私はクロックムッシュを切り分けて、一口食べる。
濃厚なチーズとまろやかなソースが美味しい。
今回のように試着を何度もするのは御免だけれど、仙台さんと出かけて良かったと思う。美味しいものをまた一つ知ることができた。
私はクロックムッシュを食べている仙台さんを見る。
彼女の顔は“にこ”がまた一つ増えていて、“にこにこにこにこ”くらいの笑顔になっている。
「仙台さん、そんなにクロックムッシュ美味しいの?」
「なんで?」
「にこにこしてるから」
「宮城がにこにこしてるから、私もにこにこしてる」
仙台さんが予想もしなかったことを言って、私は即座に「してない」と返す。
「今のは言い過ぎだったかもね。宮城が美味しそうに食べてるから、が正しいかな」
仙台さんが楽しそうに言う。
「……なんかむかつく」
ぼそりと言うと、「宮城、可愛いね」なんてさらにむかつくような言葉が返ってきて、テーブルの下で彼女の靴の先に自分の靴をぶつける。
「本当のこと言っただけなのに」
「仙台さん、うるさい」
私はクロックムッシュのお皿を空にして、サラダを食べる。向かい側では、仙台さんが機嫌良くクロックムッシュを食べている。
しばらくすると、私のサラダがなくなり、オレンジジュースもなくなる。仙台さんのお皿もすべてが空になり、彼女によってレモンタルトが二つ注文される。
空白の時間が生まれ、私はずっと気になっていたことを口にする。
「仙台さん。今日、どうして洋服をここで選ぶことにしたの? お店がいっぱい入ってるビルってほかにもあるよね?」
「嫌だった?」
「やだっていうか。……なんでここにしたのか気になる」
グラスを手に取り、水をごくんと飲む。
ここは、舞香の服を選びに来た場所だ。
仙台さんにとって洋服を選びやすい場所だから、前回も今回もここにしたと言われてもおかしくないけれど、洋服を売っているお店なんて星の数ほどあるのだから、ここじゃない場所でも良かったのではないかとも思う。
このカフェのクロックムッシュが美味しいとわかった今も、まだそんな気持ちが心の中にある。
「んー、そうだなあ」
仙台さんが胸のネックレスに触れて、私を見る。
少し考えてから、ゆっくりと喋りだす。
「あのとき、宮城に着てほしい服がいっぱいあったから。あと……。服を選んでるときの宮城と宇都宮が仲良かったからな」
「仲が良かったから? どういうこと?」
仙台さんの声はちゃんと聞こえて、彼女の言葉はしっかりと頭に入った。けれど、私と舞香の仲がいいことと、今日の私の服を選ぶ場所がどう関係しているのかまったくわからない。
「宇都宮と仲がいいのはいいことだし、服を選んだことを思い出したときに宇都宮がいるのは当然なんだけど、ここで服を選んだ話をするときには私のことを先に思い出してほしいってこと」
仙台さんが静かに言って、水を飲む。
そして、「レモンタルト、まだかな」と付け加えた。
「……誰を先に思い出したっていいじゃん」
小さくも大きくもない声でそう言うと、レモンタルトが運ばれてきて会話が途切れる。話が終わったわけではないけれど、それ以上続けるようなことでもなくて、私たちはレモンタルトを一欠片も残さずに食べてカフェを出る。
「トップス、どうする? 疲れたなら帰ってもいいよ」
行き先を決めずに歩きながら、仙台さんが言う。
「疲れてない」
躊躇うことなく答えたのに「本当に?」と疑うような声が返ってきて、私は念を押すように「ほんと」と答える。
でも、どういうわけか仙台さんは信じない。私を観察するようにじっと見て、「無理しなくていいからね」なんて言ってくる。
「仙台さん、しつこい」
彼女の腕を軽く押す。
「……大丈夫ならいいんだけど、お祭りのときみたいに無理させてたら嫌だなって思って」
聞こえてくる声は困ったようなもので、私は夏に浴衣で行ったお祭りを思い出す。
あのとき、私は慣れない下駄で足に傷を作った。
どうやら彼女はあのときのことを忘れていなかったらしい。
だから、私は自分の気持ちをもう少しかみ砕いて仙台さんに伝える。
「スカートのときみたいに試着たくさんしなくていいなら、上も選んでほしい」
「わかった」
仙台さんが笑顔で私を見て、「じゃあ、行きたいお店あるから」と言った。
彼女の声は弾んでいる。
私は仙台さんに連れられてお店をいくつか回る。
試着は二回。
買ったのは、手頃な値段のニットを一枚。
私の手にはスカートが入った袋。
トップスが入った袋は仙台さんが持つと言って奪っていった。
夕暮れの街、買い物を終えた私たちは家へと向かう。しつこく夏が居座る十月だけれど、秋は確実に存在して先月よりは涼しくなっている。電車に乗って、降りて、コンビニに寄る。夕飯のお弁当とプリンを買って、三毛猫が姿を現さない道を歩いて家へ帰り着く。
スカートがよく似合っていただとか、もっと試着をしてほしかっただとか。
お弁当を食べながら仙台さんがくだらない話をして、私はテーブルの下で彼女の足を蹴る。
私たちは手早く食事を済ませて、片付ける。
すぐに自分の部屋へ戻ってもいいけれど、仙台さんに腕を引っ張られて、彼女の部屋へ行く。ベッドを背もたれにして座ると、隣で仙台さんが「今日はありがと」と言った。
「私もありがと」
ぼそりと返すと、仙台さんが「また宮城の服、選びたい」と微笑む。
「仙台さんって服選ぶの、ほんとに好きなんだね。今日、すごく楽しそうだったもん」
「まあね。宮城の服、一生分選びたいくらい楽しかった」
「そんなに選ばなくていい」
「これからも選ばせてよ」
「やだ。疲れるもん」
「宮城のけち」
「仙台さんが欲張りすぎなだけだから」
ぺしりと仙台さんの膝を叩いて、彼女をじっと見る。
今日の仙台さんはずっと機嫌がいい。
本当にいい。
彼女の機嫌が悪いなんてときはほとんどないけれど、今日は特別に機嫌が良かった。
「……仙台さん、ほかに好きなことある?」
彼女の目を見て問いかける。
「ほか?」
「前に言ったじゃん。好きとか嫌いとか、そういうの見つかったら教えてって。忘れたの?」
これは私が仙台さんにしてほしいと思っていることで、全部ちゃんと報告してと過去に言った。でも、彼女はまだ私に好きなものも嫌いなものもはっきりと報告してこない。
もう一つ伝えた「澪さんと仲良くして」という言葉に関しては、むかつくけれどそれなりに叶っている。だから、余計に好きなものも嫌いなものも私に言ってこない彼女が気になっている。
「覚えてるよ、ちゃんと」
柔らかな声が聞こえてくる。
「じゃあ、洋服選ぶ以外に好きなこと教えて。嫌いなものができたなら、それでもいいし」
「宮城の服を選ぶ以外のことなら、選んだ服を宮城に着て貰うのが好き。だから、今日買った服、今ここで着て見せてよ」
突然、話が変わって、私は床の上でくつろいでいるカモノハシのティッシュカバーを掴まえて、仙台さんに押しつける。
「映画行くとき着るし、今日は着なくていいじゃん」
「映画に行くときだけじゃなくて、今日も見たい」
仙台さんが馬鹿みたいなことを言って、カモノハシを床に戻す。
「着ない」
「じゃあ、これからも私に宮城の服、選ばせてよ。大学行く服もなにもかも」
そう言うと、仙台さんが私の手をぎゅっと握った。