Chapter 382
志緒理。
まだもっとたくさん呼ぶことができるけれど、呼べばいつもの宮城が戻ってきそうで呼ぶことができない。
懐かない野良猫だったはずの宮城が、子猫のように私の腕の中でじっとしている。それだけで十分だ。
できれば葉月とまた呼んでほしいけれど、葉月、と何度も呼んでくれた口は、もう私の名前を呼びそうにない。乱れた呼吸を整えるためだけに動いている。
何度かしたことがある行為は、何度しても胸が苦しくて、初めてしたときと同じように心臓がうるさくなる。
滑らかな肌。
熱い体。
扇情的な声。
今日はそのすべてがこれまでにないほど近かった。今までで一番宮城を感じることができて、うるさすぎた心臓が壊れてもおかしくなかったし、ネジが落ち、砕けた理性が戻ってこなくなってしまうかと思った。
私は宮城の額にそっとキスをする。
腕の中で彼女の体が動いて、ほとんどない隙間をさらに埋めるようにくっついてくる。
「はづき」
もう呼ばれないと思った名前が柔らかな声で呼ばれる。
宮城の唇が私に近づき、私の唇に触れる。
体温が一度上がる。
冷めかけていた体に火がつきかけ、小さく息を吐く。
宮城と同じように熱かった体は、簡単に心の奥が溶かされそうになる。
「志緒理」
大切な名前をそっと呼ぶ。
宮城が私を抱きしめてきて、名前を呼ぶことが許されたとわかる。
私たちの体は吸い付くように密着していて、あり得ないほど気持ちがいい。手の中に戻ってきていた理性のネジを手放したくなる。
「志緒理」
もう一度呼ぶと、宮城が体を動かす。
ぴったりとくっついていた体が少し離れて、宮城の手が確かめるように私の頬を撫でた。
部屋は暗いけれど、明るい。
宮城が宮城の形を持って、私の目に映る。
光が足りない部屋でもわかる。
宮城は可愛い。
誕生日よりももっと宮城を大事にする。
この言葉では足りなかった。
私はこの世界を構成するどんなものよりも、宮城を大事にしたいと思っている。誰よりも可愛い宮城はそうされるべきだ。
私は宮城の頬に触れかけ、手を止める。
「ごめん」
「……なに?」
「手が」
見るまでもなく私の手は宮城から溢れた熱で溶かされ、ぬるりとしている。私は気にならないけれど、宮城は気にするかもしれない。
「別にいい」
私が言わんとすることを察したらしい宮城がふやけた声で言う。
たぶん、まだ宮城は“宮城”になっていない。
「いいの?」
「どうせおふろ入るし」
理性が完全に戻っているとは言えない声に、彼女の名残が残る手を見ようとすると、「はづき」と呼ばれた。
宮城の手が胸元の四つ葉のクローバーに触れ、跡が付かない程度に首筋を噛まれる。痛みとは言えない刺激に、かき集めて固めていた理性が崩れ、探し出したネジが部屋の隅に転がっていく。
好き。
伝えたくて伝えられない言葉は、私から溢れそうになっている。
けれど、この気持ちは閉じ込める努力をし続けるべきだ。
たとえ、想いの欠片がこぼれ落ちていたとしても。
「志緒理」
首筋を噛む宮城の腰を撫でる。
今日、宮城は「やだ」としか言わなかった。
私は“やだ”を“いい”に変換できるほど、都合の良い思考回路を持っていないし、自分に自信がない。自信があったとしても、宮城が駄目だということはしたくない。
それでも、あのとき背中に回された宮城の腕は“やだ”という言葉を打ち砕き、私たちの隙間をなくした。
今だって、私たちは熱を感じる距離にいる。
私と宮城の気持ちは完全に重なったわけではないけれど、きっと限りなく近い。そう思いたい。
「葉月」
宮城の唇が首筋を滑り、鎖骨の下にくっつく。
そして、躊躇うことなく跡がつくほど強く吸われる。
「私のだから」
宮城がさっきまでとは違うはっきりした声で言う。
私のそばにいて。
さっき私が口にした言葉の答えに聞こえて、心臓が跳ねる。
宮城のものである私の側に、彼女がいないなんてことはない。
「……志緒理。もう一回する?」
宮城の胸の上に手を置くと、バリバリと剥がされる。
「しない」
「時間、まだたくさんあるけど」
「あってもしない」
「可愛い宮城をもっと見たい」
「絶対にやだ」
いつもの宮城の声が聞こえる。
それでも脇腹にそっと手を置くと足を蹴られて、私は宮城を抱きしめた。
「仙台さん、暑い」
宮城から“葉月”が消える。
声も理性でコーティングされたものになり、肩まで押してくる。
「葉月、って呼ぶのもう終わり?」
「終わり」
「志緒理って呼ぶのは?」
「それも終わり」
低い声で宮城が言う。
「志緒理」
耳もとで囁くと、やっぱり足を蹴ってくる。
「暑いって言ったし、志緒理って呼ぶのは終わりって言った」
宮城は完全に“宮城”になってしまい、取り付く島もない。
私にとっていつもの宮城は大切な宮城で、私になくてはならない存在だけれど、理性が溶けた宮城をもう少し堪能したかったと思う。
「じゃあ、少し離れるし、宮城って呼ぶから電気つけていい?」
「やだ。タオルケット取って」
「どうするの?」
「いいから取って」
そう言うと、宮城が私の肩をまた押してくる。
私はベッドの片隅で申し訳なさそうに小さくなっているタオルケットを手に取り、宮城に渡す。
くるくるごろん。
あっという間に宮城がタオルにくるまって、私に背を向ける。
「芋虫になってる」
タオルケットの塊をつつくと、不満そうな声が聞こえてくる。
「仙台さんのせいだもん」
「私のせいなの?」
「変なこと言うし、変なところ触ってくる」
「さっきも触ったのに?」
「むかつく」
タオルケットが塊のままごろんとこちらを向き、布越しに私のお腹を押した。
「大体、こんなに服脱がせるなんて聞いてないし、こんなにたくさん触るって聞いてない」
「服は宮城が自分で脱いだんでしょ」
「仙台さんが脱げって言った」
「でも、決めたのは宮城だから。あと、触るのは別にいいんじゃない? そういうことしてるわけだし」
「よくない。触りすぎ」
「もっと触りたかった。今、触ってもいい?」
タオルケットの上から顔の辺りを撫でて、腕を柔らかく掴む。
「いいわけないじゃん。絶対にやだ」
無愛想な声で宮城が言い、タオルケットから顔を出す。そして、私の手を掴んで歯を立てた。
少し痛い。
でも、気持ちがいい。
「今は駄目でもまた触りたい。明日も明後日も宮城としたい」
耳もとに近づいて囁き、頬にキスをすると、「変態」と素っ気ない声が返ってくる。
「変態でいいから、タオルケットに私も入れてよ」
「絶対に入れない」
そう言うと、宮城がまたタオルケットに潜って隠れてしまう。私は芋虫になった彼女に「宮城のけーち」と返して、入る隙間がないタオルケットを抱きしめる。
「宮城。この前も言ったけど、私がいないときになにかあったら、私の部屋の前じゃなくて私の部屋の中にいて。勝手に入っていいから」
タオルケットは私の声に反応しない。
丸まったまま固まっている。
「私、宮城に見られて困るものないからさ。今、言ったこと覚えておいて」
腕の中、タオルケットがもぞりと動く。
でも、顔は出てこない。
志緒理。
心の中で今日何度も呼んだ名前を呼んで、私はタオルケットの塊にキスをした。