Chapter 384
「……仙台さん、これなに?」
聞かなくてもわかるけれど、理解したくないもの。
そんなものが仙台さんの部屋の床に並べられていて、頭の中にあった言葉が外の世界にこぼれ落ちる。
「HAPPY BIRTHDAYって文字のフェルトと星形の風船だね。部屋を飾るためのよくあるデコレーションセット」
彼女の言葉は間違っていない。
私の目には、誕生日を祝うアルファベットと空気が入っていない星形の風船が映っている。今日がどんな日かを考えると、床の上にそういうものがあることもおかしくはない。
――約束の日曜日。
今日は午後になったら、舞香と澪さんが私と仙台さんの誕生日を祝うためにこの家にやってくる。
でも、なにも間違っていないからと言って、理解できるとは限らない。私の頭はこの状況を受け入れがたいものと認識して、理解することを拒んでいる。
「これ、飾るの?」
床にあるものたちから視線を外し、仙台さんをじっと見る。
私は彼女に「手伝って」と言われ、この部屋に来た。だから、デコレーションセットなんてものがあることを考えると、聞くまでもなく飾り付けをするはずだけれど、聞かずにはいられない。
「宮城と私の二人でね。すぐ終わるし、手伝ってよ」
「……こういうの飾るって聞いてない」
今日という日は受け入れたけれど、部屋はいつも通りの部屋でいい。パーティーみたいな雰囲気は苦手だ。誕生日を飾り立ててほかの日と区別するような行為は好きになれない。
そもそも誕生日を祝うのは今日で二回目だ。
舞香や澪さんたちが来るからって、わざわざ部屋を飾る必要なんてない。
「仙台さんが買ってきたの?」
あり得ないとは思うけれど、一応聞いてみる。
「買ってきたのは澪。大学で、あたしが持っていって飾るのと、葉月が自分で飾るのどっちがいいって聞かれたから、自分でって答えたら渡された」
「飾らないって選択肢は?」
仙台さんに罪はないが、責めるような口調になってしまう。
「澪にはなにもしなくていいって言ったんだけど、もう買ってきてたし、強引に渡された」
仙台さんと澪さんのやりとりが目に浮かんで、頭を抱えたくなる。
澪さんは百パーセントの善意で、私と仙台さんの誕生日を楽しいものにしようとしてくれたのだと思う。
デコレーションセットなんてものが選ばれたのは、澪さんという人間が持つ部屋の隅々まで照らすような明るさからで、私にはそれが眩しすぎるだけのことだ。
世の中の人にとって誕生日に部屋を飾るなんてことはありふれたことだと思うし、なにか飾りたいと言われたらおそらくほとんどの人は断らない。だから、澪さんは、軽い気持ちで仙台さんに浮かれた文字と落ち着きのない風船を渡したのだと思う。
「……なんで渡された日に言わなかったの?」
事情を察することができても文句が口から出る。
「宮城がそういう顔すると思ったから」
仙台さんが珍しく困ったように眉根を寄せ、私の頬に触れる。
そういう顔が、どういう顔なのか私にはわからない。
けれど、あまりいい顔ではないらしく、「ごめんね」という優しい声が聞こえてくる。
「飾らないでおこっか。澪が来たら私が説得するから」
体温を移すように仙台さんの手のひらが頬にくっつく。
「……どこに飾るの?」
小さな声になってしまったけれど、言ったほうがいいはずの言葉を伝えると、頬にくっついていた手が離れ、私の髪をゆっくりと梳いた。
「無理しなくていいから」
「いい。飾る。澪さんに悪気がないのはわかってるから」
気は進まないが、二度目の誕生日を受け入れたのだから、それに付随する“デコレーション”も受け入れるべきだと思う。部屋を飾るのは嫌だと駄々をこねて、澪さんの好意を無にするのも大人げない。
「どこに飾るの?」
そう言って、床に置いてある浮かれたアルファベットを手に取ると、すべての文字が紐で繋がれているようで、ハッピーバースデーが床の上で踊り、軽く引っ張ると連なって手元にやってきた。
「ベッドのところの壁」
あの辺、と仙台さんが壁の真ん中あたりを指さす。
「わかった」
私が誕生日を祝うアルファベットたちを持ってベッドの上に立つと、仙台さんもベッドの上に立ってハッピーバースデーの最後の文字“Y”を持った。
私たちは協力して浮かれた文字を壁に貼り付け、ベッドから下りて位置を確認する。なんだか少し曲がっているような気がして、位置を直してから自己主張の激しい風船を膨らませる。
「どこに置くの?」
仙台さんに尋ねると「とりあえずベッドの上」と返ってきて、私は膨らんだ星形の風船をベッドに向かってえいっと投げる。
「なんか急にパーティー感出てきた」
壁に飾られた文字といくつかの風船を見ながら仙台さんが言う。
「澪さんって感じがする」
「まあ、確かに。本人が来る前から澪がいるみたいな感じがする」
意見が一致して、仙台さんがくすくすと笑ってベッドに腰掛ける。キラキラした星形の風船に仙台さんが取り囲まれ、私は思わず彼女の腕を掴んだ。
「宮城?」
小さく呼ばれ、腕を掴んだ手に力を入れる。
私のほうへ引き寄せるようにぐいっと引っ張ると、仙台さんが立ち上がった。
「どうしたの?」
問いかけられ、「どうもしない」と返す。
もう少しだけ仙台さんを引っ張って、ネックレスに触れる。
「……葉月」
口にするつもりがなかった名前が転がり出る。
「なに?」
「これ飾っとくのって、澪さんが帰るまでだよね?」
この部屋に馴染まない飾りは、誕生日をほかの日と区別するようなものであると同時に、仙台さんの部屋を私の知らないものに変えるものだと今さら気がついた。
「持って帰ってもらうつもりだから」
仙台さんがきっぱりと言う。
「ほんとに?」
「本当」
この家に引っ越してきてから、私たち以外が買ったものにこれほど囲まれたことがなかった。私たちは私たちのものの中で暮らし、私たち以外のものが入り込んでくることはほとんどなかった。私たちの家は、私たちのもので構成されていることが当たり前だった。
でも、今日は違う。
壁に私たちが選んだものではないものが飾られ、ベッドの上に私たちが選んだものではないものが転がっている。
落ち着かない。
この部屋は仙台さんの部屋だけれど、私の居場所でもあって、居心地が良い場所だったのに、今日は胸の奥がざわざわする場所になっている。
「葉月」
今度は意思を持って彼女を呼ぶ。
首筋に唇をつけ、歯を立てる。
跡が残らない程度に噛みつくと、囁かれる。
「印は?」
私は四つ葉のクローバーを強く押す。
「ここにある」
「もっとあったほうが安心じゃない?」
聞こえてくる声は魅力的で、首筋に指を這わせる。
私だけのものという印はいくつあったっていい。
今、この部屋は澪さんに侵食され過ぎている。
それがこれからしばらく続く。
仙台さんの体にはネックレスだけじゃなく青いピアスもあるけれど、それだけじゃ足りないかもしれない。
「宮城」
「……違う」
今、ほしい言葉はそれじゃない。
仙台さんの唇を甘噛みして、ほしい言葉を引き出す。
「志緒理」
柔らかな声が耳に響き、仙台さんの手を掴む。
袖を捲り、血管に沿って指を這わせる。
手首に唇を押し当て、強く吸う。
「志緒理」
頭のてっぺんに仙台さんの声が降ってくる。
彼女の服を脱がせて、体中に印を付けたいと思う。
でも、今は駄目だ。
この部屋は、私たちじゃないもので溢れている。
私だけが見ていいものをほかのなにかが見てしまう。
ゆっくりと手首から唇を離す。
薄く跡がついたのを確認してから、「今日は普通の格好でいて」と仙台さんに告げた。