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Chapter 399

ご飯、食べよう。


と言った仙台さんは、私のピアスに指先で触れた。

そして、ご飯の用意をせずにピアスにキスをしようとしている。


それはきっと、「宮城はなにも言わなくていいよ」という言葉を誓うキスで、珍しいことじゃない。


私たちにとって普通のことだ。


たとえ、それがピアスではなく唇へのキスであったとしても、キスは当たり前のものになっている。


でも、だけど、でも。

今日は――。


「仙台さん、近い」


私の口が勝手に動いて文句を言い、私の手が勝手に動いて仙台さんの唇が触れる前に彼女の体を押す。


近づいた距離があっという間に離れる。


「ピアスに誓うだけ」


仙台さんが静かに言う。


「誓わなくてもいい」

「じゃあ、ここにキスしてもいい?」


仙台さんの指が唇に触れる。

反射的に私の口が動く。


「なん――」


言いかけた言葉が途切れる。

いつもなら言える言葉が今日は言えない。


「続きは?」


仙台さんが優しい声で聞いてくる。


「なんでもない」


私は自分の手をぎゅっと握りしめる。

なんで、なんて聞いちゃいけない。

今日の彼女は明確な答えを持っている。


「なんでもあるでしょ」

「ない」


短く答えると、仙台さんが優しく微笑んだ。


「宮城とキスしたい理由は宮城が好きだから。納得した?」

「そんなことは聞いてない」

「聞いてなくてもいいよ。言いたかったから言えて良かった」

「仙台さん、むかつく。勝手に聞いてもないこと答えないでよ」

「昨日、これから何度でも言うって言ったでしょ」

「朝から言うなんて聞いてない」


不定の数。

何回も。


どれだけかわからないけれど、仙台さんは確かに何度でも言うと言った。でも、もう聞くことになるとは思っていなかった。


「じゃあ、いつなら言っていいの?」

「言わなくていい」

「キスは?」

「しなくていい」

「……ずっと?」


問いかけられて、握りしめていた手から力が抜ける。


仙台さんとするキスは日常の一部になっていて、しなくていいものじゃない。けれど、キスに隠されていた彼女の感情が明確になった今、キスはこれまでと同じものではなくなってしまった。


だから、ずっとしなくてもいい。


――本当に?


心の中に浮かばなくてもいい疑問が浮かぶ。

考えないほうがいいのに頭が考え出して、結論が導き出される。


「……今はしなくていい」


大きな声では答えられなかったけれど、口が動いて答えを伝える。


「今は、ね。わかった」


仙台さんがほっとしたような顔をして、私もほっとする。


そして、なにを言えばいいのかわからなくなって、私の口がまた勝手に動く。


「私、大学行くから」

「もう?」

「もう」


鸚鵡返しに答えて部屋の中に戻ろうとするけれど、仙台さんが私の腕を掴んできて、心臓も掴まれたみたいにぎゅっと締め付けられる。


「さっき、私がご飯食べようって言ったら、宮城、手伝うって言ったよね? それって食べるってことでしょ」

「いらなくなった」

「すぐできるもの用意するから食べていきなよ」

「いい」

「その“いい”は“作っていい”の“いい”だよね。座って待ってて」


そう言うと、仙台さんが私の腕を引っ張った。


必然的に私の足が動いて部屋から一歩出る。

さらに引っ張られて、二歩、三歩と歩くことになり、気がつけば私は共用スペースの椅子に座っていた。


「パンと卵焼くから待ってて。そんなに時間かからないし」


仙台さんがにこりと笑って、私に背を向ける。


彼女はフライパンを出し、卵を出して、目玉焼きを作り始める。パンはその間にトースターに突っ込まれ、朝食の用意がどんどん進んでいく。


手際がいい。

別に今日だけじゃない。


仙台さんは昨日も一昨日も、その前も手際が良かった。

この家にいる私だけが知っている仙台さんは、今までとなにも変わらない。


声も、顔も、感情も、昨日と同じだ。


それなのに、私には仙台さんが昨日の仙台さんとは違って見える。


わかっている。


――仙台さんが変わって見えるのは、私が変わったからだ。


好き。


仙台さんがこれまで口にしてこなかった言葉が、彼女の声で紡がれ、私の耳に届いた瞬間、私の中で仙台さんという人の形が変わった。


卵とパンを焼くだけだと言ったのに、サラダまで作っている仙台さんの背中を見る。


昨日見た背中と変わらないのに、彼女の感情が透けて見えそうで大人しく座って待っているだけのことができない。


手が動いて、握ったり開いたりする。

足が動いて、床から離れたりくっついたりする。

そわそわして立ち上がりたくなる。


昨日まで簡単にできたことができない。


「宮城、オレンジジュース任せてもいい?」


目玉焼きとサラダを作り終えた仙台さんに声をかけられ、「うん」と返して立ち上がる。


私はグラスをテーブルの上へ置き、冷蔵庫からオレンジジュースを出して注ぐ。


初めて聞いた言葉は、私の仙台さんとの過去を変え、未来も変える言葉で、私は途方に暮れ続けている。


「宮城、ありがと」


テーブルの上のグラスを見て、仙台さんが微笑む。

私は黙って目玉焼きとサラダを運ぶ。


仙台さんが悪いわけじゃない。

それはわかっている。


誰でも気持ちを伝える自由があるし、それを封じる権利は私にはない。でも、どうして今まで言わずにいた言葉を口にするつもりになったのかわからない。けれど、今の私にはその理由を聞くことができない。


聞けば必ず昨日のことに触れることになる。


「食べよっか」


トーストを運んできた仙台さんが言い、私たちは椅子に座る。


「いただきます」


いつもと同じように声が揃う。

昨日と同じ日が来たみたいで、いつの間にか入っていた肩の力が抜ける。


トーストにバターとジャムを塗ってぱくりと齧ると、いつもと同じ味がする。三毛猫の箸置きから箸を取り、目玉焼きを食べる。いつもと同じ味がする。


「美味しい?」


問いかけられて素直に答える。


「美味しい。むかつく」


こんな日なのに、仙台さんが作るご飯はしっかり美味しくて本当に本当にむかつく。


「美味しいなら、むかつかないで食べなよ」

「どんな風に食べたっていいじゃん」


サラダを食べて、仙台さんを見る。

彼女はいつも通りトーストを齧っている。

でも、いつもより会話が少ない。


「ごちそうさま」


食事はあっという間に終わって、立ち上がる。


向かい側、仙台さんのお皿にあったものもなくなっていて、私はテーブルの上の食器をすべて片付ける。


「作ってもらったし、私が洗うから」


仙台さんの返事を待たずにお皿を洗う。


「手伝おうか?」

「大丈夫」

「そっか。じゃあ、私は部屋に戻ってるね」

「うん」


仙台さんを否定したいわけじゃないのに、その存在を否定したようになってしまう。仙台さんの中にずっとあった二文字のせいで、私は思うように動けない。


駄目だ。


昨日からずっと、仙台さんとどう暮らしていけばいいのか考えているのに、どうしていいのかわからない。


なにもなかったみたいにキスをして、朝ご飯を食べられたら良かったと思う。でも、それは仙台さんの感情をなかったことにすることで、そういうことをしていいのかわからない。


「……仙台さん、ずるいじゃん」


部屋でなにをしているかわからない仙台さんに文句を言って、水を止める。


昨日言いたいことを言った仙台さんは、これからも言いたいことを言える。


ずるい、ずるい、ずるい。


私は、仙台さんが今までなにを考えて私に触れてきたのか考えずにはいられなくなって、昨日の私と同じことができない。


はあ。


大きく息を吐く。

部屋へ鞄を取りに戻る。

大学へ行くような時間じゃないけれど、家を出ることにする。


仙台さんの部屋の前に立つ。

トン、と一回ノックして声をかける。


「大学行くから」


ドアに背を向けて共用スペースから出ようとすると、呼び止められる。


「宮城、本当にもう行くの?」

「行く」


仙台さんのほうを向かずに答える。


「待ちなよ。私も一緒に行く」


足音が聞こえて振り返る。


「……一人で行きたい」

「なんで?」

「……落ち着かないから」


いつも通りにできない。

いつも通りにしていいのかもわからない。

なにもかもが上手く行かなくて、居心地がいい場所だった仙台さんの隣が苦しい。


「宮城。……帰ってくるんだよね?」


震えてはいないけれど、震えてもおかしくない声で仙台さんが聞いてきて、私は鞄の中からボルゾイのキーケースを取り出す。


「ここは、仙台さんにとってだけ大事なものなわけじゃないから」


仙台さんのネックレスにボルゾイをくっつける。


これは仙台さんからもらったもので、大切なものに入るための鍵を守るものだ。そういうものを私にくれた仙台さんが、私にとって大事なものがわからないわけがない。


「帰って来るってこと?」

「家に帰らなかったら帰るところないじゃん。仙台さん、馬鹿じゃないの」


私は仙台さんの足を蹴る。


仙台さんにとって大事なこの場所は、私にとっても大事な場所だ。私が帰って来る場所はここしかない。


でも、今は――。

一人になる時間がほしい。


Translation Sources

Original
deepseek